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ピット

産業革命、フランス革命の時期のイギリスの首相。数回にわたり対仏大同盟を結成、ナポレオンとも戦った。トーリ党政治家として、アイルランドとの併合を実現、連合王国を成立させた。

 ピット William Pitt 1759-1806 はイギリス産業革命期とフランス革命・ナポレオン戦争の時期に、長期にわたって首相を務めたイギリスの政治家。同じトーリ党の父も首相を務めたので大ピットといい、こちらは小ピットという。在任は1783年~1801年と1804年~06年の二回。 → イギリス(6)  イギリス(7)
 父の大ピットは七年戦争の時の首相。小ピットは24歳の1783年、イギリスがパリ条約でアメリカ合衆国の独立を認めた後に、ジョージ3世によって首相に抜擢された。その長期にわたる在任中の主な事項は次の通り。

産業革命への対応

 彼はトーリ党であったが、産業革命の進行という時勢に合わせてアダム=スミスの学説を容れて関税を軽減し自由貿易を推進した。就任間もない1784年には「インド法」を制定して、重商主義的な特許会社であるイギリス東インド会社に対する本国政府の統制力を強めて、その特権の削減に努め、1786年にはフランスとの間で自由貿易主義にもとづく英仏通商条約(イーデン条約)を締結した。またウィルバーフォースらトーリ党の人道的奴隷制反対論者の意見を容れ、1807年には奴隷貿易禁止法が制定される。しかし、資本主義の矛盾が深まり、労働者が権利要求を強めてくると、ブルジョワジーの立場から改革派に対する弾圧を強め、1799年、1800年の二度、団結禁止法を制定して、労働組合の結成を非合法化した。また当時はまだ地主階級の力は強く、ピット死後の1815年には穀物法が制定されイギリスは保護主義にもどる。

フランス革命・ナポレオンとの対抗

 フランス革命が起こると当初は傍観したが、革命が立憲君主政の枠を超えて、国王処刑、社会改革にまで進行することを恐れた。革命軍がベルギーを占領してオランダ進出をねらうようになると、1793年の第1回対仏大同盟を呼びかけた。同年、ついにナポレオン戦争が始まると、ピットは西インドに派兵して、その地のフランス植民地を攻撃した。さらに1799年に第2回対仏大同盟を締結した。首相辞任後、1802年にアミアンの和約が成立したが、すぐに和約が崩れると1804年に首相に復帰し、翌1805年の第3回対仏大同盟をそれぞれ結成し、ナポレオンのヨーロッパ制圧を抑えようとした。1805年のトラファルガーの海戦ではイギリス海軍がフランス海軍を破り、ナポレオンのイギリス侵攻を食い止めたが、同年のアウステルリッツの戦いでのプロイセン・ロシア連合軍の敗北にショックを受けて病に伏し、翌1806年に没した。

アイルランドの併合

 アイルランドはイギリスの半植民地状態におかれ、カトリック信仰の自由が制限されていたが、フランス革命の影響を受けて反イギリスの気運が強まった。ピットはこの動きを警戒し、1800年にはアイルランド併合を実現させ、一つの国家に統合し翌1801年1月に「グレート=ブリテンおよびアイルランド連合王国」が生まれた。ピットはカトリック信仰も容認しようとしたが、ジョージ3世が拒否したため、1801年にピットは首相を辞任し、アイルランド問題はさらに継続されることとなる。

Episode 二世政治家、24歳で首相になる

 ピットの父(大ピット)も首相を務めたので、こちらは小ピットというが、この「二世政治家」(ちなみにイギリスでは親子二代で首相になったのはこの例しかいない)は、どこかの国の二代目とは違い名声と実力を併せ持ち、ナポレオン戦争というイギリスの難局に当たったすぐれた政治家だった。彼はわずか23歳で大蔵大臣に抜擢され、イギリスが1783年パリ条約でアメリカ合衆国の独立を認めた後に、国王ジョージ3世によって24歳で首相に任命された。父と同じくエピソードの少ないまじめな政治家であったが、大酒飲みで有名で、あるとき飲み友達と一緒に酔っぱらって議場に入り、友人に「議長が見えんな」というと、友人は「馬鹿いうな。あそこに二人いるじゃないか」と答えたという。この二人、宿に泊まって一晩でワインを7本飲んだという逸話もある。<小林章夫『イギリス名宰相物語』1999 講談社現代新書 p.67>

ピットの評価

 高校世界史の教科書ではピットは、対仏大同盟の立役者としてだけ登場し、イギリス首相としての業績については触れられないのが普通であるが、近代イギリス史では外すことのできない政治家の一人である。その評価については次の文が適切なようだ。
(引用)近代のイシュー(争点)に正面から取り組んだ最初の国民的リーダーは、ウィリアム・ピット。同年生まれのウィリアム・ウィルバーフォースとケインブリッジ大学で同窓、生涯の親友となった。ともに21歳で庶民院議員である。アメリカ独立を承認したパリ条約の直後に弱冠23歳で首班指名され、中断をはさんで計21年間も首相をつとめ、産業革命と対フランス戦争と「連合王国」の成立にかかわった。「小ピット」というが、同名の父「大ピット」の子だからそうよばれたので、長身の秀才、有能な仕事人、その演説は天下の逸品であった。<近藤和彦『イギリス史10講』2013 岩波新書 p.203>
 小ピットは「近代トーリ党の祖」という評もあるが、誤解を招きやすい。彼は党派を超えた国家指導者(ステイツマン)であり、政敵ホイッグ党のフォックスにも一目置かせる「公共精神(パブリック・スピリット)」をにない、古来の国制とアダム=スミスを信じ、ホイッグの論客バークにも近かった。
 また、ピットは「対仏大同盟」をとなえ、フランスと戦ったので保守反動と思われがちだが、イギリスがフランスとの戦争に踏み切ったのは1789年ではなく、ルイ16世処刑後の93年であったのであり、ピットは自由主義者としてジャコバン主義国家とナポレオンのヨーロッパ帝国に対決したのだった。
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ノートの参照
第11章3節 ウ.戦争と共和政
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小林章夫
『イギリス名宰相物語』
1999 講談社現代新書