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イギリス産業革命とインド

イギリス産業革命が進行した18世紀末より、イギリス産機械織り綿布がインドに流入し、インドは綿布輸出国から輸入国に転換し、貧困化が進行した。

 イギリス東インド会社の実質的支配下にあった18世紀のインドは、農民の家内工業によって生産されるインド産綿布がイギリスにもたらされるという図式であったが、イギリスで産業革命が起こると、逆にイギリスの綿工業で生産された機械製綿布がインドに流入するようになった。そのため、インドの綿織物工業は打撃を受けて衰退し、インドはイギリスに対して原料の綿花を生産するモノカルチャー的な状態となり、製品としての綿織物を輸入することとなった。18世紀の終わりごろからこのような事態が進行し、インドはイギリス資本主義の原料供給地と市場として組み込まれ、自国の工業発展の可能性を奪われ、深刻な貧困に陥っていった。 → インドの綿花栽培

「織布工たちの骨はインド平原を白くした」

(引用)イギリス綿業は、19世紀の2、30年代から本格的に世界市場へと進出しはじめた。綿製品は、はじめはヨーロッパ大陸諸国に輸出されていたが、それらの諸国で綿業が発展してくると、次第に後進国に市場を移しはじめた。とくにインド市場の比重は、1840年の18%・・・・1860年の30%と急テンポで増えている。インドからイギリスへの輸出額と、イギリスからインドへの輸出額とは、すでに1814年に逆転し、いまや攻守ところをかえていた。機械制大工業によって生産された安い製品は、とうとうとしてインド市場に流れ込み、その圧倒的な競争力をもって、手工業的な綿布生産を破滅させることになる。もともと、インドの村落共同体は、土地の共有、農業と手工業の結合、カースト制度による固定的な分業に立脚していた。・・・東インド会社の土地政策は、私的所有と金納地租とを導き入れることによって、この村落共同体を破壊しはじめていたのであるが、そこへ追い打ちをかけるように、安い綿製品が流れ込んできた。農民の手紡・手織はたちまちにしてすたれ、家族は失業と飢餓のどん底にたたきこまれた。・・・同じ頃のインド総督もまた、「この窮乏たるや商業史上にほとんど類例をみない。木綿織布工たちの骨はインドの平原を白くしている」と述べたのである。<吉岡昭彦『インドとイギリス』1975 岩波新書 p.84-86>

イギリス産綿織物のボイコット

 このようなイギリス製綿布の流入によるインド農村の疲弊は1850年代のインド大反乱の背景となったが、その後も状況はさらに悪化した。それに対してインド国内でも徐々に近代的な綿織物生産を行う資本も形成されてくると、彼ら民族資本かは国民会議派に結集して、1906年にカルカッタ大会四綱領を決定し、イギリス製品に対する反発から、英貨排斥(ボイコット)・スワデーシ(国産品愛用)を提唱したが、そこで真っ先にイギリス製綿布のボイコットと国産綿布の復興が叫ばれた。
 さらに第一次世界大戦後の1920年代初めには、ガンディーの指導でインドの反英闘争が展開される。ガンディーは非協力運動を提唱し、まっさきにイギリスのインド支配の象徴であったイギリス製綿織物のボイコット運動を行い、自ら綿糸をつむぐ姿をインド人に示してインド産綿織物の使用を訴えた。
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書籍案内
『世界の歴史24 変貌のインド亜大陸』
1978年 講談社
インドとイギリス 表紙
吉岡昭彦
『インドとイギリス』
1975 岩波新書