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インドシナ出兵/フランス=ベトナム戦争

1858~62年、フランスのナポレオン3世によるベトナムなどへの出兵。フランス領インドシナ成立を進めた。

ナポレオン3世は、宣教師殺害に対する賠償を口実にスペインと共同で1858年8月にベトナムに出兵した。
 フランス・スペイン連合海軍は、トンキン湾を砲撃、さらにベトナム南部のメコン川を遡って砲撃を加え、さらにフランスは陸軍を上陸させてベトナム南部を占領して、阮朝との間で、1862年にサイゴン条約を結んだ。

ナポレオン3世の意図

 このナポレオン3世のインドシナ出兵は、支持基盤であるカトリック教会のアジア布教を支援するという大義名分で行ったが、その本質は対外的な領土膨張を実現して国民的な人気を得ようとする対外政策の一環であった。しかしこの出兵は、ベトナム側から言えば、植民地化の危機の始まりであり、フランス=ベトナム戦争(仏越戦争)と言うべき出来事であった。

出兵の口実と経過

 ベトナムの阮朝は、ヨーロッパ列強のアジア侵略に対して強硬手段をとり、キリスト教禁止に転じて、スペイン人宣教師2名とフランス人宣教師2名を1857年までに処刑した。これに対してフランスのナポレオン3世は、キリスト教の布教・通商の自由・損害賠償を要求してスペインと共同して艦隊を派遣した。1858年8月31日、フランス・スペイン連合艦隊12隻は3000人の軍隊を載せてダナンに入り、砲撃を加えて海兵隊を上陸させ、城塞を占拠した。阮朝は直ちに2000名の軍を送り防衛に努め、フランス軍の進撃を食い止めた。フランス軍は暑熱に苦しみ病気になるものが多く、苦戦に陥った。59年にはフランスは軍隊を増派してメコン=デルタ地帯の中心都市サイゴンを占領した。当時フランスは、中国ではイギリスと共同してアロー戦争(1856年~)を行っていたが、1860年に終結すると兵力をベトナムに集中し、南部ベトナム(コーチシナと言われた)を制圧した。

サイゴン条約

 1862年、フランスはベトナム(阮朝)との間で講和条約としてサイゴン条約を締結し、キリスト教布教の自由、通商の自由などを認めさせて開国させるとともにコーチシナ東部三省(サイゴンを含む)を割譲させた。フランスはさらに1863年にカンボジアを保護国化し、64年にはコーチシナ西部三省を侵略する。

第三共和政でのベトナム侵略

 フランスは、ナポレオン3世没落後の第三共和政においても、植民地膨張政策を継承し、むしろ帝国主義的な植民地経営を拡大しようとした。1880年代に入るとベトナム北部に侵出し、1883~84年に2次にわたるユエ条約でアンナン、トンキンの保護国化を阮朝に認めさせた。1884年に阮朝に対する宗主国としての権利を侵害されたとする清との清仏戦争で勝利し、翌年の天津条約でベトナムの保護国化を認めさせた。フランスは1887年にベトナム・カンボジアをフランス領インドシナ連邦とし、さらに1899年のラオスを保護国化して編入したことによって植民地支配を完成した。 → ベトナム保護国化 
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ノートの参照
第13章2節 ウ.東南アジアの植民地化