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コーチシナ

ベトナム南部メコン=デルタ地帯。サイゴンを中心とした肥沃な地域であり、1860年代にフランス領となった。

ベトナムの三つの地域の内、ベトナム南部は特にフランス支配時代にコーチシナと言われた。それに対して、ベトナム中部はアンナン(安南)、ベトナム北部はトンキン(東京)と言われた(コーチシナといわれた経緯は補足を参照)。この地域は元々はベトナム人の居住地域ではなく、古代においてはチャンパーを建国したチャム人カンボジアを建国したクメール人の地域であった。後のベトナム南部最大の都市として発展するサイゴンも、はじめはクメール人が作った都市でプレイ=ノコールと言われていた。
 16世紀にベトナム人の黎朝が分裂し、ユエに広南阮氏の政権が出来たころからベトナム人のこの地域への進出が活発となり、1804年にベトナムを統一した阮朝の支配下に入った。

フランスの植民地化

しかし、19世紀後半から植民地獲得をめざすフランスのナポレオン3世の侵略を受け、1862年のサイゴン条約ではコーチシナ東部三省(ビエンホア、ジャディン、ヴィントゥオン)がフランスに割譲された。さらにフランスは、1867年にコーチシナ西部三省(ヴィンロン、ソクチャン、チャウドク)も侵略し、ベトナム南部全域を直接支配下に置いた。1887年にはフランス領インドシナ連邦の一部として組み込まれた。
 第二次世界大戦後のインドシナ戦争によって南北ベトナム分裂が固定化されると、中心都市サイゴンはアメリカに支援された南ベトナムの首都とされ、ベトナム戦争ではベトナム解放民族戦線の主な活動地域となり、激しい戦火に見舞われた。

補足

 ベトナム南部地方をコーチシナということ なお、フランス植民地時代には、南ベトナムのサイゴン周辺をコーチシナといった。これは中国でベトナムをコーシ(コーチ)と言っていたのがヨーロッパに伝わったとき、ポルトガル人がインドのコーチン(1503年、アルブケルケが最初の要塞を築いたところ)と区別するため、中国のコーチの意味でコーチシナと言うようになり、フランスがベトナムに進出したときも最初に獲得したベトナム南部をコーチシナと呼んだためである。本来交趾は北部ベトナムだけをさす地名であったのが南部ベトナムをさす地名に転用されてしまった。  
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ノートの参照
第13章2節 ウ.東南アジアの植民地化