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プチャーチン

ロシア極東艦隊司令官として1853年、長崎に来航し江戸幕府に開国を要求。54年に下田に再来し55年、日露和親条約を締結。

ニコライ1世が派遣

 1852年、ロシアでかねて日本沿海への進出を図っていたニコライ1世は、アメリカがペリー艦隊を日本に派遣するとの情報に接し、ただちにプチャーチン提督をロシア極東艦隊司令官として日本に派遣し、江戸幕府に開国を打診することとにした。ロシアとしてはエカチェリーナ2世による1792年のラクスマンアレクサンドル1世による1804年のレザノフ、に続く三度目の派遣であった。
 プチャーチンは1852年10月、「パルラダ」号でクロンシュタット港を出発、イギリス・ポーツマスを経て、喜望峰を回り、シンガポール・香港に寄港し、小笠原で艦隊を整え、18538月22日、長崎に到着した。しかし、すでにアメリカのペリーは1853年7月8日に浦賀に到着しており、それよりも1ヶ月以上の後れを取った結果となった。1954年1月から長崎で交渉が始まったが、すでに185310月、クリミア戦争が勃発しており、ロシアはイギリス・フランスと敵対関係となったため、いったん長崎を退去した。

日露和親条約の締結

 しかし、同1854年3月に江戸幕府がアメリカとの間で日米和親条約を締結したことを知ったプチャーチンは「ディアナ」号を大阪に回航して再び幕府に迫り、幕府もこれ以上拒絶できないと判断、12月から伊豆の下田で幕府の川路聖謨との間の交渉を再開させた。その結果、1855年2月(旧暦54年12月)、日露和親条約が調印された。  → 千島・樺太交換条約  北方領土問題

Episode 日本最初の西洋帆船戸田号の建造秘話

 なおこの交渉中の11月4~5日に安政大地震が起こり、下田にも津波があったためロシア船ディアナ号が破損して沈没した。帰国の便を失ったロシア使節に対し、日本側が協力して戸田(へた)港で新たに帆船「戸田号(ヘダ号)」を建造し、プチャーチンらはそれで帰国した。
 → プチャーチン、日露和親条約、ディアナ号、ヘダ号については 日本財団図書館ホームページ 日露友好150周年記念特別展「ディアナ号の軌跡」報告書に詳しい。
 このときのロシアのプチャーチン使節団には多彩な人びとが参加していた。そのなかのイワン=ゴンチャロフは後に文学者として『オブローモフ』などの作品が評価され、文豪の一人に加えられている。彼はこのときの日露交渉についても詳しい記録を残しており、交渉相手であった川路聖謨をその人格、弁舌において高く評価できると記している。
 もう一人、モジャイスキーという人は技術士官として乗り組んでおり、戸田で近辺の日本人船大工を指揮して日本で始めての外洋帆船戸田号を建造した。当時、幕府と薩摩藩も西洋帆船の建造に着手していたが、外国の図面を参考にするだけだったので満足なものは作れず、戸田号が日本最初の本格的な西洋型帆船の建造とされている。戸田の船大工たちはモジャイスキーの指導でわずか3ヶ月で完成させ、このとき知られた造船技術はその後の日本の造船技術の基礎となった。モジャイスキーの撮影した日本最古の銀板写真は下田のハリス記念館に残されている。
 このモジャイスキーは、帰国後、1884年にロシアで初めて蒸気エンジンによる飛行機を作り、飛行実験を行ったことでも知られる。それはライト兄弟1903年の成功に先立っており、ロシアではモジャイスキーが人類初の動力飛行を成し遂げた人物といわれている。<鈴木真二『飛行機物語』2012 ちくま学芸文庫 p.86>
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書籍案内
日露国境交渉史 表紙
木村汎
『日露国境交渉史―領土問題にいかに取り組むか』
1993 中公新書

木村汎
『新版日露国境交渉史―北方領土返還への道』
2005 角川選書