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エカチェリーナ2世

18世紀後半のロシア全盛期の皇帝。啓蒙専制君主としてロシアの強大化を推進した。

ロシアロマノフ朝の女帝(在位1762~96年)。ドイツ生まれで、ピョートル3世の皇后となり、近衛連隊のクーデタによって女帝となった。18世紀前半のピョートル1世(大帝)と並んで、女帝でしかもロシア人ではないという立場ながらエカチェリーナ大帝とも言われる、ロシアの大国化を推し進めた皇帝であった。しかし、当時西ヨーロッパはイギリスの産業革命が展開し、その覇権が確立した時期であったので、ヨーロッパの東の端に位置するロシアでも近代化を急がなければならない状況であったため、ツァーリズムを継承しながら、一面で啓蒙専制君主という姿勢をとっていたが、次第に反動化した。

啓蒙専制君主として

 1773年にはエカチェリーナはフランスの啓蒙思想家ディドロを招くなどして、啓蒙専制君主としての改革を進め、まず各身分の代表を召集して新法典編纂委員会を設立して「訓令」を発し、国家機構の整備に努めた。
 イギリスの植民地でアメリカ独立戦争が起こると、イギリスを圧迫するために1780年、武装中立同盟を提唱してアメリカを助けた。

領土の拡張

 また、ピョートル大帝に続いてロシア帝国領土の拡張に努め、南下政策を具体化して1768年にロシア=トルコ戦争を開始し、1774年にキュチュク=カイナルジャ条約クリム=ハン国の保護権を獲得、次いで1783年にはクリム=ハン国を併合し、クリミア半島を領有した。また西側では1772年に第1回ポーランド分割に加わり、領土の拡張を図った。
 また日本人漂流民大黒屋光太夫を送還するため1792年にラクスマンを根室に派遣、江戸幕府に開国を迫った。

反動化

 1773年にフランスから啓蒙思想家ディドロを招いたが、その年に、プガチョフの大農民反乱が勃発している。それを鎮圧してからはエカチェリーナ2世の政策は反動的になり、農奴解放は実施が遠のいた。封建的な社会の改革は進めなければならないとしながらも、専制君主を倒し共和政とするような革命の勃発は避けねばならず、フランス革命勃発の知らせを聞くと上からの改革さえも放棄してしまった。1793年、フランス前国王ルイ16世が処刑されると、イギリスのピットの呼びかけに応じて、対仏大同盟(第1回)に加わり、フランス革命に干渉した。また同年、ポーランドで共和政的憲法が成立すると、大軍を派遣して介入し、コシューシコらの民族運動を弾圧し、第2回ポーランド分割を強行した。

Episode クーデタで夫を追放したエカチェリーナ

 エカチェリーナ2世には詳細な『回顧録』がある。ソ連解体後の情報公開でその全文が明らかになったが、そこには夫ピョートル3世との不幸な結婚生活や、自ら皇帝となった経緯など、詳しく書かれている。彼女との仲が悪かったピョートル3世は、かんしゃく持ちで病弱、危機的な財政状態をかかえるロシアの皇帝としてはその統治能力にも疑問を持たれていた。1762年、公開の席上でピョートル3世から「バカ」呼ばわりされたエカチェリーナはクーデタを決意し、反ピョートル派の貴族と近衛部隊と結んで皇帝即位を宣言、ピョートルに退位を迫った。臆病なピョートルは泣く泣く同意し、退位した。白馬にまたがりロシアの近衛連隊の制服に身を包み軍の先頭に立ったエカチェリーナ2世は、「ドイツ女」というハンディにもかかわらず、国民の支持を受け、また皇帝としても国家財政の再建に努め、「大帝」と言われるようになった。退位したピョートルは数日後に亡くなったが、エカチェリーナの謀殺の噂が絶えなかった。<小野理子『女帝のロシア』1994 岩波新書による。>
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ノートの参照
9章1節 カ.北方戦争とロシア
書籍案内
小野理子『女帝のロシア』
1994 岩波新書

トロワイヤ/工藤庸子訳
『女帝エカテリーナ』
上下 中公文庫リブロ