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アレクサンドル1世

19世紀初めのロシア皇帝。ナポレオン戦争に勝利してウィーン体制をリードし、神聖同盟の盟主となった。

19世紀初頭のロシア帝国、ロマノフ朝の皇帝、在位1801~25年。治世の初めにはスペランスキーなどの改革派を登用して、三権分立の導入などの改革を図ろうとしたが、ナポレオン戦争が勃発して改革は停止された。

ナポレオンを撃退した皇帝

1805年のアウステルリッツ三帝会戦では敗北を喫し、ロシアの防衛体制を固め、ナポレオン軍の侵略に備え軍備を増強した。1810年からナポレオンのロシア遠征が始まり、ボロディノの会戦では敗れたが、クトゥゾフ将軍の戦略によってモスクワを放棄し、粘り強く戦い、ついにナポレオンを撃退した。ついで攻勢に転じ、ライプツィヒの戦いでナポレオン軍を破り、ナポレオンを追ってパリに入城し、ナポレオン支配を終わらせた。このとき、ロシア軍の青年将校の一部はフランスの自由な社会に触れ、ロシア社会の改革の必要を感じることとなり、後の蜂起につながったことは皮肉であった。

ウィーン体制をリード

 ナポレオン戦争後のウィーン会議では大きな発言力を持ち、ポーランドを事実上支配下に置いてポーランド立憲王国の国王を兼ねた。また神聖同盟を提唱し、保守反動体制の中心勢力となった。一方で、イギリスがフランスの再起を抑える目的で提唱した四国同盟にも加盟した。ことらはイギリスが、アレクサンドル1世がフランスと結ぶことを牽制するための者であった。

自由主義に対する弾圧

 戦後のアレクサンドル1世は専制権力を強めたので、フランス遠征などで自由主義の洗礼を受けた青年将校の反発を受け、急逝した1825年には青年将校らによる自由主義を目指すデカブリストの乱が起こった。急遽即位した弟のニコライ1世のもとで反乱は鎮圧されたが、ロシアの後進性が次第に明らかになっていく。
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ノートの参照
第12章1節 ア.ウィーン体制