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南アフリカ戦争/ボーア戦争/ブール戦争

1899~1902年、イギリスが南アフリカのブール人の二国家をを侵略し、併合した帝国主義戦争。

 19世紀末、イギリスの帝国主義の対外政策の一つで、南アフリカのイギリス領ケープ植民地の北方に位置するオランダ系入植者の作ったオレンジ自由国トランスヴァール共和国に対して軍事攻勢をかけ、1902年までにイギリス植民地に組み込んだ典型的な植民地獲得戦争であった。また帝国主義によるアフリカ分割を一段と進めることとなった。
 ブール人は南アフリカにイギリス人より先に入植していたオランダ系の白人の子孫。イギリスがケープ植民地を獲得したため、その支配を避けて北方に移住(グレート=トレックという)し、アフリカ人の土地を奪ってオレンジ自由国・トランスヴァール共和国を建設していた。その地でダイヤモンドと金が発掘されたことを機に、イギリスは植民地支配をその地に拡大しようとした。

第1次ブール戦争

 オレンジ自由国でダイアモンド鉱が発見されると、イギリスはケープ植民地への併合をねらい、1877年に、まずトランスヴァール共和国の併合を強行した。それに対してトランスヴァール側の激しい抵抗が起こり、1880年に第一次ブール戦争が起こった。ブール人は果敢に戦い、1881年2月のマジュバの戦いではイギリス軍が大敗して講和に持ち込まれ、一定の自治を与えることで休戦した。

セシル=ローズの強攻策

 さらに1886年、トランスヴァールに金鉱が発見されると、ケープ植民地首相であり現地のイギリス人企業家を代表するセシル=ローズは、イギリス南アフリカ会社(BSAC、東インド会社後に久々に設けられた特許会社)を設立、1890~94年にかけてトランスヴァールの北方の広大な土地に武装した遠征隊を派遣し、ンデベレ人など現地アフリカ人を制圧して強引に領有し、ローデシアと命名した。さらにその地からトランスヴァール介入の機会をうかがい、1895年12月、トランスヴァール内のイギリス人を保護するという名目でジェームソンという人物に軍隊をつけて侵入させた。しかし、侵入部隊はブール軍によって阻止され、ジェームソンも捕虜となり失敗した。このジェームソン侵入事件という強引な干渉策は内外の批判を浴び、イギリス政府もセシル=ローズを首相の地位から解任せざるを得なくなった。

ジョゼフ=チェンバレンの帝国主義政策

 イギリス本国の植民地相ジョゼフ=チェンバレンは、セシル=ローズのアフリカ植民地拡大策を継承し、ブール人との戦争をもくろんで、盛んに挑発した。チェンバレンによって任命されたケープ植民地首相ミルナーは、トランスヴァールとオレンジ自由国在住のイギリス人に選挙権を与えることを要求、イギリス国内に向かっては両国内のイギリス人が無権利な「奴隷状態」に置かれていると宣伝して、開戦をあおった。チェンバレンは議会で軍隊増員が認められない場合に備えて、議会の承認の必要のないインド兵を動員し、さらにオーストララリア、ニュージーランド、カナダなどから義勇兵を募集した。

戦争の開始

 トランスヴァール共和国側も戦争は避けられないと判断し、同じブール人の国であるオレンジ自由国と同盟して開戦に備えた。1899年10月、ついに開戦したこの戦争は、イギリスは当初クリスマスまでに終わらせると考えていたが、想定外に激しい抵抗によって1902年5月までの2年半つづいた。これを第2次ブール戦争とも言うが、一般的に教科書などで南アフリカ戦争(ボーア戦争、ブール戦争)といわれているのは、この戦争のことをいっている。イギリスでは、南アフリカに定着していたオランダ系白人であるボーア人との戦争という意味でボーア戦争(またはアングロ=ボーア戦争 Angro-Boar War)と言っているが、オランダ系白人は自らをブール人といい、ボーアはイギリス風の発音で蔑視が込められた言い方である。

戦争の経緯

 1899年10月に始まった戦争は、1900年9月1日を境として二期に分けられる。
・第一期 華々しい正規軍同士の戦争であり、イギリス軍は「マジュバの復讐」(1881年の第1次戦争でイギリス軍が大敗した戦い)を叫び、ブール軍は侵略阻止、独立維持を掲げて結束した。ブール軍は機関銃や無煙銃など最新のドイツ製の武器で装備されており、イギリスにとっても近代的な装備を有する軍との最初の戦争(同時期のマフディ教徒の反乱や義和団事変ではまだ鉄砲や槍しかない相手だった)であったため、12月のケープ北方のシュトルムベルクの戦闘では約3千のイギリス軍がわずか800人のボーア軍に大敗を喫するなど苦戦した。予期せぬ大敗に肝をつぶしたイギリス軍部は、総司令官にインド大反乱を鎮圧したことで知られるロバーツ陸軍元帥、参謀長にマフディーの反乱を鎮圧したばかりのキッチナー将軍を任命し、一挙に18万の大軍を派遣した。これによって態勢を立て直したイギリス軍が攻勢に転じ、翌年3月にはオレンジ自由国の首都ブルームフォンテンを陥落させ、さらに6月にトランスヴァール共和国の首都プレトリアに入城し、9月1日にトランスヴァール併合が宣言されて戦争は終わったかに見えた。
・第二期 ボーア軍は降伏に同意せず、ドゥ=ウェットが編み出したゲリラ戦法で抵抗を続けた。ゲリラ戦法はナポレオンの侵入に対するスペインの反乱(スペイン独立戦争)の際に用いられたもので、小部隊に分かれイギリス軍の後方を攪乱し、鉄道を破壊して補給路を断つなどの戦術を展開した。それに対してイギリス軍は、ゲリラの隠れ場所になっているとしてブール人の農家を片端から焼いていくという焦土作戦をとり、さらにゲリラを防止する目的で婦女子も含めてブール人を強制収容所に収容した。このイギリスの作戦はさらにブール人の反発を強め、イギリスはゲリラを鎮圧するのに時間と費用がかさんでゆき、ようやく国内でも戦争中止の声が起こってきた。ブール人側も抵抗を続けるのは困難であったことから、1902年、プレトリアで講和会議が開かれ、ようやく5月、ブール側は将来の自治の約束は取り付けたが、両国をイギリスが併合することを承認し、戦争が終わった。
 戦争は、ボーア側は6000人以上の戦死者、2万余の病死者(餓死者を含む)を出し、イギリス側も戦死者6000、戦傷死・戦病死1万6千、戦傷者2万3千を数え、軍事費は2億2300万ポンドにのぼった。これだけの大きな犠牲を払い、ボーア人の二つの共和国が地図上から消滅した。

戦争の基本的な性格

 戦争の本質は、イギリスの独占資本が、ダイヤモンドと金という資源を獲得するための、帝国主義戦争であった。1870年代から顕著となった、帝国主義政策を採る列強によるアフリカ分割の最終局面であり、同時期の米西戦争や、中国分割の進行とともに帝国主義的な世界分割の一部であるということができる。
(引用)一口で言えば、経済的利害の対立が戦争の主要な原因であった。また、この資源豊かな土地へのイギリス人の略奪的侵入を積極的に推進したのが植民地相ジョセフ=チェンバレンであり、かれが南アフリカで帝国主義戦争を推進した張本人であったことは、いうまでもなかろう。そして、かれの背後には、イギリス独占資本、とりわけ、南アフリカの鉱山業を支配するセシル=ローズ、ヴェルナー、ラッドらの金融資本家の要求があった。この時期はちょうど、植民地が資本の投下地として独占資本の側から見直されはじめていた時期に相応している。<岡倉登志『ボーア戦争―金とダイヤと帝国主義』1980 教育社歴史新書 p.12>

侵略者としてのボーア人

 南アフリカ戦争はイギリスの侵略であり、ボーア人はその被害者であった。そのため、ボーア人に対しては同情的な記述が多い。しかし、現地アフリカ人から見れば、イギリス人もボーア人も侵略であったことには変わりはない。このことを抑えておかないと、彼らが白人の支配者として共同で統治することになる南アフリカ連邦とその後継である南アフリカ共和国において、黒人に対する差別と抑圧の典型であるアパルトヘイト政策がとられていくことを見逃すこととなる。
 イギリスとの戦争の最終局面の講和会議で、ブール人は「アフリカ人には選挙権を与えないこと」を条件の一つとして主張し、1802年の講和条約では、「アフリカ人の選挙権付与の問題は自治政体設置後に決定する」とされた。これらは、「ボーア人がアフリカ人の政治的進出を恐れていたこと、すなわち、アパルトヘイト政策の源流」であったことをうかがわせる。<岡倉登志『同上』 p.152,175>

南ア戦争の国際的影響

 南アフリカ戦争は、同じ時期のアメリカの米西戦争と同じ帝国主義戦争であった。イギリス自身は、エジプト南部のスーダンでのマフディーの反乱の鎮圧、フランスとのファショダ事件につづく、アフリカ縦断政策の帰結であった。しかし、イギリス帝国が、ブール人の小さな国家二つを併合するのに、2年半も要したことは、イギリスの帝国としての権威を大きく失墜させることとなった。当時すでに工業力でアメリカ合衆国に抜かれており、イギリスの長い低迷の始まりと見ることもできる。東アジアでは1900年に義和団事変が勃発し、イギリスも北京への共同出兵に踏み切ったが、南アフリカ戦争の継続中であったため、兵力を割くことができず、北京出兵の主力は日本軍とロシア軍にゆだねざるを得ず、事変後にロシアが満州占領から撤退しない状況となると、アジアでの利権を守るためにイギリスの外交の基本であった「光栄ある孤立」政策を改め、1902年に日英同盟を締結することとなる。

Episode 捕虜となったチャーチル

 南ア戦争には、シャーロック=ホームズの生みの親コナン=ドイルが軍医として参加し、彼はイギリス軍の行動を正当な愛国心の発露であるとして盛んに弁護している。さらに、後にイギリスの首相となるウィンストン=チャーチルは、このとき弱冠25歳で、新聞記者として従軍した。1899年11月、前線に向かうチャーチルを乗せた装甲列車がブール軍に攻撃され、チャーチルは一命を取り留めたものの捕虜になってしまった。ナタールの捕虜収容所に送られたチャーチルは、約1ヶ月後に巧みに脱出し、モザンビークに逃れて助かった。彼はその体験を記事にして、一躍有名になった。そこで彼は1900年の総選挙で保守党から立候補し、見事初当選し、26歳で政界に身を置くこととなった。現代イギリス最大の政治家チャーチルの誕生は南ア戦争がきっかけだったわけだ。<岡倉登志『同上』 p.186-190>

南ア戦争後のイギリス

 南ア戦争は、開戦当初は国民の熱狂的支持をうけた。しかし当初の予想に反しボーア人の頑強な抵抗によって長期化した。1902年の講和によってイギリスはトランスヴァール共和国とオレンジ自由国を併合し、大英帝国の拡張に成功したが、最終的には45万の兵員と2億3千万ポンドの戦費を費やし、巨大な財政赤字と膨大な国債を残して、国家財政を破綻させた。南ア戦争中の1901年1月にヴィクトリア女王が死去したことは大英帝国の転換を象徴していた。  南ア戦争後の国家財政破綻から回復するためソールズベリ内閣は輸入穀物への課税を打ち出した。この保護貿易主義への転換は与党(当時は保守党と自由統一党が合体して統一党と言っていた)を分裂させ、内閣は倒れ、ジョセフ=チェンバレンも辞任した。チェンバレンはその後も保護貿易政策による財政再建を主張して各地で演説した。統一党が瓦解したため、1905年に自由党内閣(キャンベル=バナマン首相)、1908年には同じくアスキス内閣が成立し、自由党政権が続く。しかしこの自由党政権のもとでドイツの帝国主義的膨張に直面し、「自由帝国主義」といわれる自由主義を維持しながら帝国主義政策を展開することとなる。
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第14章2節 ア.アフリカの植民地化
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岡倉登志
『ボーア戦争―金とダイヤと帝国主義』
1980年 教育社歴史新書―西洋史