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チェコ兵捕虜/チェコスロヴァキア軍団

第一次世界大戦でロシアの捕虜となっていたチェコ軍兵士。ロシア革命が起こり、ドイツ・オーストリアとの講和が成立したので、シベリア経由で西部戦線に送られることになったが、シベリア各地でボルシェヴィキと衝突。1918年8月、その救援を口実とした英米仏、および日本軍によるシベリア出兵が行われた。

 第一次世界大戦が勃発した当時、チェコスロヴァキアオーストリア=ハンガリー帝国に支配され、その一部を構成していた。そのため、チェック人スロヴァキアの兵士は、オーストリア軍の一部として動員された。以下、説明の便宜のため彼らをチェコ兵と総称する。

シベリアのチェコ兵捕虜

 第一次世界大戦でオーストリア軍に動員されたチェコ人およびスロバキア人の兵士でロシアの捕虜となっていたものに、ロシア在住のチェコスロヴァキア人が兵士として加わり、約4万人のチェコスロヴァキア軍団を形成していた。彼らは優秀な装備をもち訓練程度も高い兵力であった。ソヴィエト政権がドイツと講和すると、彼らの中に西部戦線でのドイツとの戦闘を望む声がおきた。
 1917年11月、第2次ロシア革命ボリシェヴィキ独裁が成立し、レーニンが平和についての布告で即時休戦を呼びかけ、それによってドイツとの休戦交渉が始まると、フランス・イギリスはロシアの戦争離脱によってドイツ軍が西部戦線に全力を投入することを怖れた。そこで、チェコ兵をシベリア鉄道経由でウラジヴォストークから船でヨーロッパに送り西部戦線に投入することを計画、実施に移された。ソヴィエト政権はチェコ兵のシベリア通過を認めたが、チェコ兵もソヴィエト政権がドイツと講和したことに反発していた上に各地の反革命勢力はチェコ軍団を利用しようとたため、チェリャヴィンスクなどでチェコ兵とボルシェヴィキの衝突が発生した。

多国籍軍のシベリア出兵

 1918年5月に大規模なチェコ兵捕虜とボリシェヴィキの衝突が勃発すると、それまで干渉軍派遣に消極的であったアメリカのウィルソン大統領が、チェコ兵捕虜救援のための共同出兵を日本に提案してきた。ウィルソンとしては、すでに発表していた十四カ条で民族自決の実現を戦争目的の一つに掲げていたので、チェコ民族の苦境を無視できないという處に在った。  日本はすでに単独でウラジヴォストークに艦隊を派遣し、4月には日本人居留民が殺害されたことを受けて居留民保護のため陸戦隊を上陸させていたが、原敬などの派兵慎重論も根強かった。原敬もアメリカとの共同出兵であれば止むなしと派兵を認めた。こうして、アメリカ軍・日本軍を主力とし、イギリス・フランスなども加わった多国籍の共同行動として8月、本格的なシベリア出兵が開始された。こうしてチェコ兵捕虜救出を「大義名分」とした干渉戦争の一環として、シベリア出兵は開始された。