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シベリア鉄道

19世紀末~20世紀初頭にロシアが建設したシベリアを横断する鉄道。ロシア帝国の東方進出の動脈として建設され、日露戦争直前の1904年に東清鉄道経由で開通した。ロシア領内のみを通るシベリア鉄道としては1916年に全線が開通した。

 19世紀末、ロシア帝国主義列強に対抗して東アジアに進出するために、シベリアの原野を横断する鉄道の建設を計画した。帝政ロシアは、まだ資本と技術に不十分なものがあったため、フランス資本の導入に依存することにより、1891年から工事を開始し、それによって極東のウラジヴォストークまでを鉄道で直接つなぎ、アジア進出をすすめていった。

皇太子ニコライの遭難

 なお、1891年のシベリア鉄道起工式はウラジヴォストークで挙行されたが、その式典に参加する途中、1891年5月、日本に立ち寄った皇太子ニコライ(後のニコライ2世)は、大津事件(日本人巡査に斬りつけられた事件)に遭遇した。事件は突発的なものであったが、背景には日本国内のロシア脅威論が悪感情にまで沸騰していたことがあった。しかし明治政府はロシアを刺激することを恐れ、裁判に圧力をかけ犯人の巡査を死刑にしようとした。それに対して大審院判事(現在の最高裁判所裁判官)児島惟謙が、司法権の独立を守り、刑法どおり殺人未遂罪を適用して無期懲役の判決を出した。それが司法権の独立という近代法治国家の原則が守られたとして評価されている。
 なおニコライはこのとき頭に受けた傷がもとで、生涯頭痛に悩まされたと言う。

参考 山県有朋の朝鮮利益線論

 日本でのロシア脅威論は、大津事件を起こした巡査津田三蔵だけでなく、当時の著名なジャーナリスト徳富蘇峰なども声高に叫んでいた。政権内でロシアに対する警戒を最も強く主張していた元老の一人山県有朋は、ロシアのシベリア鉄道建設計画を知り、1888年に陸軍監軍(後の教育総監)に就任したとき『軍事意見書』を書いて、その完成が極東におけるイギリス・ロシアの関係に大きな影響を与えるであろうと予測し、さらに1890年3月首相となったとき、閣僚に対して示した『外向性略論』でシベリア鉄道建設は朝鮮半島をめぐる国際情勢に変動をもたらすであろうとの認識を示し、朝鮮半島は我が国の主権線を守る利益線の内側にあり、日本が列強の間で独立を維持するには、主権線を守るだけではなく、利益線を保護しなければならない、と書いた。この思想が、ロシアの脅威から日本を守るためには朝鮮半島を日本の利益線として確保しなければならない、という日露戦争から韓国併合に至る日本の外交路線の基本となっていった。

東清鉄道と南満支線

 シベリア鉄道の建設を進める一方、ロシアはウラジヴォストークへの近道である満州横断鉄道の建設をねらい、1896年には、清国に迫ってシベリア鉄道のチタから中国領内を通り、ウラジヴォストークを結ぶ東清鉄道の敷設権を認めさせた。さらに1898年の列強による中国分割に加わり、遼東半島先端の旅順・大連租借と、東清鉄道のハルビンと大連を結ぶ南満支線の敷設権を清に認めさせた。
シベリア鉄道開通と日露戦争 シベリア鉄道・東清鉄道の建設は日本及びイギリスを刺激することとなり、特に日本はロシアの勢力が朝鮮半島に及ぶことを恐れた。東清鉄道は1903年7月1日に開通し、シベリア鉄道は黒竜江北岸を迂回する本線は未完成であったが、東清鉄道で満州を横断してウラジヴォストークから北上するシベリア鉄道とつながり、モスクワと極東を結ぶことが可能となった。さらにそれより前の1月にはハルビンから大連への南満支線も開通していたので、シベリア鉄道-東清鉄道―南満支線による兵員輸送が可能になった。シベリア鉄道の一部、バイカル湖を迂回する部分は未開通で、湖上は船運に依存しなければならなかったが、ロシアの極東への輸送力は格段に向上したしたので、日本は強い危機感を抱き、シベリア鉄道経由の輸送力が完全になる前に開戦することを決意、1904年2月、日露戦争となった。

全線の開通

 日露戦争はイギリスの支援を得た日本が、陸上での戦闘、日本海での海戦に勝利し、優勢に戦いを続ける中、1905年9月、アメリカの仲介でポーツマス条約を締結し講和となった。その直後の1905年10月、シベリア鉄道(バイカル迂回線)が開通したが、ロシアは満州での主導権を失ったため、ロシア領内のシベリア鉄道本線を延長して、すでに1898年に開通していたウラジヴォストーク━ハバロフスク線への接続をめざして1908年に再びフランスの支援で建設を工事を再開した。ようやく第一次世界大戦中の1916年にはハバロフスクまでが開通し、それによって黒竜江(アムール川)北岸を通るアムール鉄道も含め、ロシアの国土だけを通るシベリア鉄道全線が開通した。

ロシア革命とシベリア出兵

 第一次世界大戦中の1917年3月、ロシア帝国ロマノフ朝がロシア革命で倒されると、イギリス・フランス・アメリカ・日本その他の諸国は革命への干渉をはかり、チェコ兵捕虜(チェコスロヴァキア軍団)をシベリア鉄道経由でウラジヴォストークから帰還させようとしたことを革命軍(ボリシェヴィキ)が阻止しようとしたことを口実に1918年8月、まずアメリカと日本がシベリア出兵を行った。
 シベリア出兵にあたり、アメリカはシベリア鉄道と東支鉄道の単独管理をねらい、日本は日米による共同管理を主張した。両国は翌年2月、協定を結び、英仏伊などとともにシベリア鉄道を連合国共同委員会で管理、運行することで合意し、アメリカがシベリア鉄道と東支鉄道本線、日本がハルビンと長春間を分担した。革命干渉軍はシベリア鉄道沿線で、反革命軍を支援して革命軍と戦ったが、反革命の敗北を押しとどめることはできず、英仏両国軍の撤退に続きアメリカは1920年4月までに撤退、日本はその後も駐留を続けたが、国際的非難が起こったため、22年10月には撤退(樺太からは25年)した。

ソ連の国家事業

 列国のシベリア干渉は失敗し、1920年までには撤退(日本軍のみ、1925年まで駐留)し革命軍が勝利した。その後も革命軍(赤軍)と反革命軍(白軍)がシベリア鉄道沿線で戦闘を繰り返したが、革命軍の優勢が確定し、1922年にソヴィエト社会主義共和国連邦が成立、シベリア鉄道の事業はその後、社会主義国ソ連に継承される。
 ソ連にとっても広大なシベリアと、極東地域を統治するためにシベリア鉄道は不可欠であり、経済的目的だけでなく軍事目的で最大限の利用がなされた。現在、シベリア鉄道は、ウラルのチェリャビンスクから日本海に面したウラジヴォストークまで、ロシア領を通る総延長7600km、ロシア経済を支える大動脈となっている。

第二シベリア鉄道(バム鉄道)

 1931年、日本の関東軍満州事変を起こし、日本の満州支配が始まると、ソ連は日本のシベリアへの進出に備えてシベリア鉄道の輸送力強化をはかり、1932年にはベリア鉄道全線を複線化した。同時に第二シベリア鉄道の建設を開始した。それはイルクーツクの西方のタイシェトからシベリア鉄道と分岐し、バイカル湖の北岸を通り、タイガ地帯を抜けて、アムール川流域を結ぶ路線であるので、バイカル=アムール鉄道、その略称としてバム鉄道と呼ばれるようになった。その建設は、第二次世界大戦中の独ソ戦の激化に伴いいったん中断されたが、ソ連軍の勝利が見込まれると、一方で日本との戦争の状況が高まったことをうけて工事を再開、1945年7月にはコムソモリスク=ナ=アムーレと間宮海峡に面したワニノの間が開通した。
 ヨーロッパ戦線が終戦を迎えると、ソ連軍は大挙シベリア鉄道を利用して極東に移動、1945年8月8日、ソ連は対日参戦し、満州に侵攻して関東軍を撃破、そのとき関東軍の将兵多数を捕虜としてシベリアに抑留、その多くは第二シベリア鉄道の建設現場の労働力とされ、極寒の地で命を落とすものも多かった。ソ連のスターリン体制の下ですすめられた第二シベリア鉄道の建設は、1953年のスターリンの死と共に工事が中止され、全線開通しないまま放置された。

中ソ対立とシベリア鉄道

 ソ連の中で再び第二シベリア鉄道が意識されたのは、中国との関係悪化(中ソ対立)のためであり、中ソ国境紛争1969年3月ダマンスキー島事件などで軍事衝突が起こったためであった。従来のシベリア鉄道が中国領に近いところを走るので中ソ戦争となれば破壊される恐れがあったため、北方の奥地を通る第二シベリア鉄道の戦略的価値が高まった。
 このようにシベリア鉄道・第二シベリア鉄道は、ロシア・ソ連の東方進出とそれに伴う戦争の危機と常に結びついていた。第二シベリア鉄道は1970年代にもソ連の社会主義国家建設の柱の事業として推進されたが、厳しい自然環境の下で難工事が続いた。1984年には全線が開通したとされるが、今度はソ連経済の停滞から、運行は十分行われず、また軍事的目的から一般乗客、海外旅行者が利用できない区間もあった。ソ連崩壊後、ロシア共和国によって運営され、シベリア鉄道はロシア中心部と中国・日本との貿易に重要なウラジヴォスートクとむすび、第二シベリア鉄道はサハリンやクリル諸島とをむすぶ経済路線として重要性を増しており、徐々に観光目的での利用も多くなっている。
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