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ウクライナ

9世紀にはキエフ公国が繁栄。14世紀にはリトアニアの支配を受ける。18世紀にロシア領となり、ロシア革命の時独立したが、ソヴィエト政権が成立してソ連邦を構成する社会主義共和国となった。首都はキエフ。

 ウクライナはロシア平原の南、ドニェプル川流域から黒海の北岸、クリミア半島を含む広大で豊かな穀倉地帯である。この地には紀元前750年頃、カスピ海北岸からイラン系と思われるスキタイが移り住み、鉄器を使用する遊牧生活を送っていたことが、ギリシアの歴史家ヘロドトスの『歴史』に現る。やがて東スラブ人がキエフを建設、次いでノブゴロドのルーシが進出してきて9世紀にキエフ公国を建設した。このキエフ公国の下で、東スラヴ人がロシア人(大ロシア人)、ウクライナ人(小ロシア人)、ベラルーシ人(白ロシア人)に分化したとされている。キエフ公国は13世紀初めにモンゴル人の侵入を受けて滅び、ルーシ国家の中心はモスクワに移ることになり、ウクライナの地はしばらく他民族支配が続く。
(1)キエフ公国  (2)リトアニア=ポーランド王国その他による支配  (3)ロシアによる支配  (4)独立とソ連編入  (5)ソ連から分離独立  (6)オレンジ革命

「国がない」民族の歴史

 2014年のウクライナの政変から始まったロシアのクリミア編入、親西欧派と親ロシア派の内戦、そしてマレーシア航空機の撃墜というショッキングな事件によって、にわかに日本でもウクライナに関する関心が高まった。しかし日本にとってもなじみのない国であるためか、その歴史はなかなか判りにくい。その最大の理由が、ウクライナは広大な地域を占めながら時代によってその領域が大きく変動し、さらにロシア、ポーランド、リトアニアなどの近隣の強国に常に脅かされ、その支配を長く受けてきたことによる。その点について、ウクライナ大使を務めた黒川祐次氏の『物語ウクライナの歴史』はわかりやすく説明してくれている。その「まえがき」の一節には次のような文がある。
(引用)ウクライナ史の権威オレスト・ステプルニーは、ウクライナ史の最大のテーマは、「国がなかったこと」だとしている。すなわち、多くの国において歴史の最大のテーマがネーション・ステート(民族国家)の獲得とその発展であるのに比し、ウクライナでは国家の枠組なしで民族がいかに生き残ったかが歴史のメーン・テーマであったというのである。<黒川祐次『物語ウクライナの歴史』2002 中公新書 p.iii>
 とはいえウクライナに国家が無かったわけではなく、キエフ=ルーシ公国は10~11世紀にはヨーロッパの大国として君臨し、その後のロシア、ウクライナ、ベラルーシの基礎を形づくった。ウクライナは東スラブの本家筋だったのだが、モンゴルの侵攻などでキエフが衰退したのに対し、いわば分家筋のモスクワが台頭し、スラブの中心と、ルーシ(ロシア)の名前をそちらに取られてしまった。そのためキエフの人たちはウクライナという新しい名前を作らなければならなかった。キエフ=ルーシ公国はウクライナ人の国というよりロシア発祥の国と捉えられるようになり、ウクライナの歴史は「国がない」民族の歴史となった。
(引用)「国がない」という大きなハンディキャップをもちながらも、そしてロシアという言語、文化、習慣の近似した大国を隣にもちながらも、ウクライナはそのアイデンティティーを失わなかった。ロシアやその他の外国の支配下にありながらも、ウクライナは独自の言語、文化、習慣を育んでいった。コサック時代のユニークな歴史があり、またロシアに併合された後も、ウクライナはロシア史の中で経済的、文化的に重要な役割を果たしてきた。そしてその間にもウクライナのナショナリズムは高まっていった。
 そしてついに1991年ウクライナは独立を果たした。ひとたび独立してみると、人々はヨーロッパにまだこんな大きな国が生まれる余地があったのかとあらためて驚いた。面積は日本の約1.6倍で、ヨーロッパではロシアに次ぐ第二位である。人口は5200万人でロシア、ドイツ、イギリス、イタリア、フランスに次ぎ、スペインやポーランドをはるかに凌駕している。考えてみれば、ヨーロッパで5000万人規模の国家が成立するのは、19世紀後半のドイツ、イタリアの統一以来の出来事である。<黒川『同上』 p.iv>

ウクライナという国号

 「ウクライナ」の語源は、ソ連時代には「辺境」を意味していると説明され、ロシア支配時代からの「小ロシア」という名称が使われていた。ウクライナ・ナショナリズムの高まった最近では、ウクライナの語幹にあたる“ krai ”という語は、「切る」「分ける」という意味であり、そこから派生したウクライナという語は「地方」や「国」を意味する、という説が強くなっている。「ウクライナ」が特定の地域を示すようになったのは16世紀のことで、それはドニェプル両岸のコサック地帯を指しており、またコサックの指導者も「ウクライナ」を祖国と意識して、宣言や文書に使うようになったことから始まる。<黒川『同上』 p.81-84>

(1)キエフ=ルーシ公国

 9世紀末、ノルマン人の一派のヴァイキングがリューリクに率いられてノヴゴロド国を建国した。彼らは自らはルーシと称し、その地の東スラヴ人と同化していった。彼らは次第に南下し、ドニェプル川中流のキエフを占領、キエフ公国(キエフ=ルーシ公国)が成立した。キエフ公国はドニェプルから黒海に進出し、カスピ海北岸のハザール=カガン国を圧迫し、バルカン半島ではブルガール人/ブルガリアなど競いながら、領土を広げていった。

キエフ公国のビザンツ化

 キエフ大公ウラディミル1世は、ビザンツ帝国の混乱に乗じてコンスタンティノープルに軍隊を進めて圧力をかけ、989年、ビザンツ皇帝の妹を后に迎えることに成功し、その際にギリシア正教会に改宗し。このことはキエフ公国が文化的にビザンツ化したことを意味しており、その後のロシア国家、スラブ系国家に大きな影響を与えた。

キエフ公国の滅亡

 キエフはバルト海と黒海を結ぶ商業ルートの中心都市として発達し、毛皮などの交易の中継地として栄えた。しかし、キエフ公国ではもともと兄弟分割相続が行われていたため、キエフ大公以外に多くの公国が分立して争うようになり、12世紀には10~15の公国に分かれてしまった。モスクワ公国もキエフ大公国から分離したウラジミール=スズタリ公国からさらに分離した公国として生まれた。
モンゴル軍の侵攻 そのような分裂状態であったキエフ公国は、モンゴル帝国バトゥの率いる大遠征軍の侵攻を受けると、個々の公国が次々と撃破され、1240年、キエフも占領されて滅亡した。
ハーリチ=ヴォルイニ公国 キエフ公国はモンゴル軍によって滅ぼされ、現在のウクライナの大部分はキプチャク=ハン国の支配を受けることになったが、ウクライナの西部のガリツィア地方にあったキエフ公国の一地方政権であったハーリチ=ヴォルイニ公国は、よくモンゴル軍に抵抗し、その結果、キプチャク=ハン国に朝貢するが国家としては存続した。ウクライナの歴史ではこの国をキエフ=ルーシ公国の後継国家であり、同時にウクライナ人の最初の国家ととしている。
 しかしこの国は長く存続することができず、1340年代になって、北をポーランド、南をリトアニアに併合され、消滅してしまった。これ以後、この地には、1917年にウクライナが独立するまで、独立国家は存在しなかった。

(2)リトアニア=ポーランド王国その他による支配

モスクワ大公国の成長

 キエフ公国が衰退した後、ウクライナの東北地方ではモスクワ大公国が次第に有力となった。同じようにバトゥの侵攻によってキプチャク=ハン国の支配(タタールのくびき)を受けたが、その支配は間接的であった。そして1480年にモスクワ大公国はキプチャク=ハン国から自立し、1453年にビザンツ帝国がオスマン帝国に滅ぼされたていたので、モスクワが「第2のローマ」コンスタンティノープルに次ぐ、「第3のローマ」と称した。モスクワ大公国は国力を増強するにつれて、ウクライナ全土への領有権を主張して、リトアニア=ポーランド王国と抗争するようになった。

クリミア半島の情勢

 またウクライナの東南部、クリミア地方には、キプチャク=ハン国は次第に衰退して1502年に滅亡、その辺境国の一つだったクリム=ハン国の騎馬民族タタールがスラブ系住民を捕らえて黒海での奴隷貿易を行うようになった。

リトアニアの南下

 14世紀には北方のリトアニア大公国が急速に勢力を拡大してきた。リトアニア人はドイツ騎士団と闘いながら武力を強くし、スラブ人居住地に進出し、ベラルーシやかつてのキエフ公国の領土、つまり現在のウクライナの北部を支配下に収め、1362年にはキプチャク=ハン国を初めて破り、この地をいわゆる“タタールのくびき”から解放した。

リトアニア=ポーランド王国

 このポーランドも、14世に西方からウクライナの地に進出してきた。ポーランドは西側からの神聖ローマ帝国とドイツ騎士団の圧力を受けており、出口を東方に求め、カジミェシュ3世の時、ウクライナ西部のハーリチ=ヴォルイニ公国に干渉し、同じくその地に干渉してきたリトアニアとも争い、リヴィウを中心とするガリツィア地方をその支配下に収めた。1386年、カジミェシュ3世が亡くなると継承者がいなかったため、リトアニア大公のヤゲウォをポーランド国王として迎え、リトアニア=ポーランド王国となった。

ポーランドによる支配

 同君連合であったリトアニアとポーランドの連合王国は、1569年に合併したが、その実態はポーランド王国によるリトアニア併合であった。その結果、キエフを含むウクライナのほぼ全域もポーランドの支配下に入った。ポーランドは国王は有力な貴族(シュラフタ)によって選ばれる選挙王制が行われており、貴族の力が強かったが、ポーランド支配下のウクライナでもポーランド人貴族が土地を支配し、ウクライナ人は農奴化されていった。貴族の支配と農奴制社会化がこの時代の特色であった。

コサックの登場

 コサックとは15世紀頃から、ロシアからウクライナにかけての草原(ステップ)に定住したスラブ人の農民たちが、東方から侵入するトルコ系遊牧民タタール人と戦いながら次第に騎馬技術に長ずるようになり、やがてタタールと同じように略奪を行う自治的な武装集団となっった人々を言う。それらの中で、ウクライナのドニエプル川中流の中州にザポロージェ・シーチ(ザポローシュとは「早瀬の向こう」、シーチとは「要塞」を意味する)を建設し、そこを中心として勢力を強めた人々を、ザポロージェ=コサックと言うようになった。
 ザポロージェ=コサックははじめはポーランド王に従属し、その軍事力としてモスクワ公国との戦いに従軍して勇名を馳せるようになったが、キリスト教の先兵としてタタール人のクリミア=ハン国やオスマン帝国のイスラーム教徒と戦い、次第に独立した政治勢力となっていった。ポーランド王は次第にコサックの統制に手を焼くようになり、1572年には登録制度を導入して統制しようとした。

Episode コサックの議会

(引用)ザポロージェ=コサックの政治は平等の原則によって行われていた。軍事行動(戦争や略奪のための遠征)や外国との同盟などの重要事項は「ラーダ」と呼ばれる全体会議で決められた(なおラーダは現独立ウクライナの議会の名でもある)。コサックたちは毛皮の帽子を挙げたり、投げ捨てたり、そして大声を出して同意や反対の意思表示をした。コサックの頭領であるヘトマンは、初期にはポーランド王によって任命されたが、後にはラーダ出席の全員によって選ばれた。いったん選ばれるとヘトマンは、とくに軍事面では独裁的な権限を行使した。同僚を死刑にする権限ももった。もっとも、戦いで敗れた後、指揮において誤りがあったとしてヘトマンが死刑になる処せされることもあった。<黒川『同上』 p.92>

ボグダン=フメリニツキーの独立運動

 ザポロージェ=コサックのアタマン、ボグダン=フメリニツキーは、1648年にリトアニア=ポーランド王国に対する反乱を開始した。それはウクライナ各地に広がり、独立運動となった。フメリニツキーは一事はワルシャワ近くまで進撃したが、引き返してキエフに入城し、コサックのヘトマンをいただくヘトマン国家を作り上げた。それは、ギリシア正教のローマ=カトリック(及びその手先となっていたイエズス会)に対する勝利として捉えられ、フメリニツキーはキエフ府主教から「ポーランドへの隷属からルーシを解放した者」、「第二のモーゼ」と讃えられた。

コサックのヘトマン国家

 フメリニツキーはポーランドと戦う上でクリミアハン国のタタールと同盟したが、1651年にはタタールが離反したため戦いに敗北した。そこでフメリニツキーはモスクワのロマノフ朝に支援を要請、第2代目の国王アレクセイはウクライナのコサックを保護下に置くことを決め、1654年に彼らと臣従協定を結んだ。フメリニツキーは失意のうちに1657年に死去した。
 フメリニツキーのヘトマン国家の範囲はキエフを中心とした数州に限られ、現在のウクライナの面積には及ばないが、最初の実質的なウクライナの独立国家ということができる。しかし、その存在は長くはなく、ロシアはさらにウクライナを巡ってポーランドとと戦い、1667年に休戦条約を結んでウクライナの大半をロシアの領土とした。

ウクライナ(3) ロシアによる支配

ウクライナ東部のロシアへの編入

 ウクライナのコサック、ボグダン=フメリニツキーの反乱から始まった、ロシアとポーランドの戦争は、1667年に講和となったが、その結果、ドニエプル川左岸、つまりウクライナの東半分と、右岸にあるキエフはロシア領となった。キエフはロシア国家の発祥の地であったので、ロシアはその故地を回復したことになるが、それだけに留まらず、先進的な文化を有し西側に開かれた都市を獲得したことはロシアの発展にとっては重要な意味があった。

ロシアの南下政策

 16世紀~17世紀、ロシア帝国は盛んに南下政策を進めた。そのころ、クリミア半島クリム=ハン国はオスマン帝国に服属していたが、ピョートル大帝は1696年にアゾフ海に進出した。

ヘトマン・マゼッパとピョートル大帝

 ザポロージェ=コサックのヘトマン(頭領)マゼッパはロシアのピョートル大帝の南下政策に協力して戦ったが、その犠牲となって多くのコサックが命を落とした。マゼッパはその代償として自治権を求めたが、中央集権化を進めるピョートルはそれを認めなかった。そのため、1700年に北方戦争が始まると、マゼッパは途中からスウェーデンのカール12世側に転じ、ピョートルと敵対することとなった。1709年、ウクライナの中部のポルタヴァでカール12世とマゼッパの率いるコサックの連合軍とピョートル大帝の率いるロシア軍が激突した。ロシア軍には他のコサックが加わっていた。戦いはロシア軍の勝利となり、マゼッパは約4千のコサックと共にオスマン帝国に亡命、その地で亡くなった。

ウクライナから小ロシアへ

 1774年、エカチェリーナ2世キュチュク=カイナルジ条約をオスマン帝国との間で締結し、クリム=ハン国の独立を認めさせ、黒海沿岸地帯を獲得した。これによってオスマン帝国・クリム=ハン国との戦争が一応の決着がついたので、コサックは必要でなくなった。そこでエカチェリーナはザポロージェ=コサックを廃止、ロシア軍に編入した。その一部はクバン地方に移住し、クバン地方のウクライナ人の先祖となった。エカチェリーナはオスマン帝国の干渉を排除した上で、1783年に軍隊を派遣してクリム=ハン国を滅ぼした。その一方でウクライナにロシア本土と同じくキエフなどの三県を置き、ロシア帝国の一部とし、コサックのヘトマン国家は消滅、ウクライナは「小ロシア」と称されるようになった。

ポーランド分割

 その後、ウクライナ西半分はポーランド領として残っていたが、次第に国力を衰退させたポーランドに対し、18世紀末にはロシア・プロイセン・オーストリア三国によるポーランド分割が行われ、1793年の第2回でドニエプル左岸の大部分、1795年の第3回で残りのウクライナがロシア領に編入された。もっとも、ロシアにとっては、歴史的にはこの地はロシア国家の領土だったと主張し、それを奪回したとの意識が強かった。事実、後にポーランドが復活してもこの地はポーランドに戻ることはなかった。

ロシアとオーストリアによる支配

 この結果、18世紀末にウクライナの地は約8割がロシア帝国領(小ロシア)とされ、残りの2割はオーストリア帝国に支配されることとなり、その状態は第一次世界大戦終結までの約120年間続くことになる。

ウクライナ(4) 独立とソ連編入

独立と苦難

 第一次世界大戦の末期、1917年に第2次ロシア革命が勃発、まず二月革命でロシア帝国が滅亡した。それによってウクライナには独立の機会が訪れたが、同時にロシア革命の激しい波を被ることとなり、その独立からソ連に編入されるまでには、短期間ながら複雑な経緯があった。
ウクライナ中央ラーダ 二月革命が起きると、ウクライナではただちに諸勢力の代表がキエフに集まり、「ウクライナ中央ラーダ」を結成した。ラーダはウクライナ語で会議を意味し、ロシア語のソヴィエトに相当する。中央ラーダはロシアの枠内での自治の確立で一致したが、民族主義的要求が強く、ボリシェヴィキは少数だった。
ウクライナ国民共和国 ロシア革命政権である臨時政府は中央ラーダの自治要求を認めず、対立関係となった。十月革命ボリシェヴィキ独裁政権が成立すると、ウクライナの中央ラーダは暴力的な権力奪取を認めず、独自に「ウクライナ国民共和国」発足を宣言した。ボリシェヴィキ政権は赤軍を派遣してキエフを占領、それに対してウクライナ政府はドイツ軍の援助を得て赤軍を撃退した。
ウクライナ社会主義ソヴィエト共和国 しかし、1918年にドイツ軍は撤退、ウクライナはソヴィエト軍、マフノらに率いられた農民軍、民族派のデレクトーリア軍、デニキンの白軍などが入り乱れて複雑な内戦となった。1919年春までに赤軍の勝利が確定して、ウクライナ社会主義ソヴィエト共和国が設立された。しかし、1920年4月、ピウスツキに指導されポーランドがソヴィエト=ポーランド戦争に踏み切ると、ウクライナのキエフはポーランド軍に占領された。ヴィスワ川の戦闘で赤軍がピウスツキ指揮のポーランド軍に大敗、1921年3月に締結された講和条約(リガ条約)で西ウクライナと白ロシアの一部はポーランド領に編入された。

ソ連邦を構成する

 こうしてウクライナの大部分はウクライナ=ソヴィエト共和国に属することになったが、残りはポーランド、ルーマニア、チェコスロヴァキアに編入された。1922年12月にロシア、ベラルーシ、ザカフカースとともにソヴィエト社会主義共和国連邦を形成した。形式的にはウクライナは独立国であるが、ソ連邦を構成する一部分でもあるという二重の存在となった。
ロシア化の進行 ソ連邦では、当初はその内包する多くの民族の自主性が尊重され、それぞれの言語や習慣は積極的に保護されていた。ウクライナでも当初はウクライナ語の使用が奨励され、ウクライナの独自の文化も尊重されていたが、レーニンの死去の後、トロツキー(ウクライナ生まれのユダヤ人だった)が追放され、スターリンが権力を握ると中央集権化と共に民族文化の抑圧に転じ、ウクライナ語のアルファベット、語彙、文法はロシア語に近づけられ、新聞雑誌でもウクライナ語が減少、20年代に見られたウクライナ文化は30年谷は全く姿を消してしまった。
集団化と大飢饉 1930~31年、ウクライナでも農業集団化が強行され、農民はコルホーズ(集団農場)とソフホーズ(国営農場)に組織されていった。一方ウクライナのオデッサなどでは工業化が進められ、労働力として農民の都市移住が強制された。1935年までに91.3%が集団化されたが、その結果、天候不順もあって穀物生産量は激減し深刻な飢饉に襲われることとなった。正確な統計はないが、ウクライナではこの大飢饉で350万人が命を落としたとされている。

第二次世界大戦とウクライナ

ドイツ軍の侵攻と強制移住 1941年6月、ドイツが独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻、独ソ戦が開始されると、バルバロッサ作戦の下、ドイツ軍が破竹の進撃を続け、11月にはウクライナ全土はドイツ軍の手に落ちた。スターリンはドイツ軍の進撃をくい止めるため、ウクライナの焦土化を図り、東ウクライナの工場地帯の住民約380万人(1000万人との説もある)と850の工場設備をウラル山脈を越えた遠隔地に強制的に移住させた。
ドイツ軍の占領 ウクライナを占領したドイツ軍はその地を穀物供給地として重視しただけでなく、人的資源をかり集め、オストアルバイター(東方労働者)と称してドイツ本土に移送し、強制的な労働に従事させた。またユダヤ人に対しては過酷な摘発を行い、85~90万が強制収容所に連行された。1943年1月のスターリングラードの戦いで形勢が逆転、ドイツ軍の後退が始まり、ソ連軍がウクライナに進撃し、同年9月までに全ウクライナを占領した。
国連に一議席をもつ 第二次世界大戦中の1945年4月のサンフランシスコ会議で可決された国際連合には、ウクライナとベラルーシはソ連と共に加盟し、原加盟国としてそれぞれ一票を与えられている。これは、大戦末期のクリミア半島のヤルタで開催されたヤルタ会談で、ソ連のスターリンが主張し、チャーチルが認めたことによって実現した。

ウクライナ(5) ソ連から分離独立

第二次世界大戦後、ソ連邦の一員として、社会主義体制が続いたが、1991年、ソ連邦の解体に伴い、ウクライナとして独立、独立国家共同体(CIS)に加盟した。 しかし、親ロシア派と親西欧派の対立が続き、現在も不安定な状況にある。

クリミア半島ウクライナに編入

 1954年、ソ連のフルシチョフ第一書記は、フメリニツキーがロシアの宗主権を認めたペレヤスラフ協定の締結300周年記念の際に、それまでロシアの一部であったクリミア半島を、「ロシアのウクライナの兄弟愛と信頼」に基づき、ウクライナ共和国に移管した。これはウクライナを懐柔することと同時に、ロシア人の多いクリミア半島をウクライナに移管させることで、ウクライナのロシア人比率を高めようとしたものであった。フルシチョフの頭の中には、将来ウクライナが独立するなど考えも及ばなかったのであろう。「後に(ソ連解体によってウクライナが独立し)、ロシア人はあれほど愛したヤルタの保養地も、ロシア軍の歴史とともにあったセヴァストーポリも失うことになるのである。」<黒川『同上』 p.240>

ソ連の停滞とウクライナ

ロシア人の移住 1970年代のブレジネフ時代にはソ連の停滞がウクライナにも及び、穀物生産量、工業生産量がともに減少し、経済成長率の低下が続いた。それでもソ連の他地域よりも恵まれていたため、ウクライナへのロシア人の移住が相次ぎ、1926年には300万だったのが、1979年には1000万人となり、ウクライナ総人口の20%を越える状態となった。
ヘルシンキ宣言の影響 冷戦の続く中、デタント(緊張緩和)の動きが強まり、1975年7月にヘルシンキで全欧安全保障協力会議(CSCE)が開催された。ブレジネフはその成果として出されたヘルシンキ宣言に署名したが、そこには国境尊重の安全保障に加え、各国が人権尊重を訳する条項が含まれていた。ソ連に人権を抑圧されていたウクライナを含む東欧諸国の人々は、このヘルシンキ宣言を拠り所に、人権の回復を訴え、ソ連および共産党による政権独占、言論弾圧などに抗議するようになり、いわゆる「反体制運動」が始まった。ウクライナにおいても反体制活動が活発になったが、ブレジネフ政権はヘルシンキ宣言に違反してそれらの言論の弾圧を続けた。

ペレストロイカとウクライナ

 1985年、ソ連に登場したゴルバチョフ政権グラスノスチ(情報公開)とペレストロイカ(改革)を掲げ、ソ連の停滞を打破し、社会主義体制の再建を目指した。しかし、情報公開の広がりは、過去のソ連時代の大飢饉や人権抑圧を明るみに出すことになり、ウクライナにおいてもソ連社会主義の硬直した抑圧体制に対する批判が強まっていった。

チェルノブイリ原発事故

 そのような中、1986年4月26日、ウクライナ西部にあったチェルノブイリ原子力発電所が人為的なミスで爆発するという大事故が起こった。事故は3日間隠蔽され、被害を全ヨーロッパに広がる結果となり、ソ連の体制の構造的欠陥が明らかになった。原発事故だけではなく、急速な工業化が進んだ東ウクライナは、深刻な汚染問題が起きていた。

ソ連からの分離独立

 ソ連邦の動揺が続く中、1989年に一連の東欧革命が起こり、東欧諸国の社会主義体制が急激に倒れた。ウクライナでも同年9月、長く権力を維持していたウクライナ共産党第一書記のシチェルビツキーが解任され、変化が加速された。ウクライナの民主勢力は「ルーフ」(運動の意味)を結成し、1990年1月にはリヴィウからキエフまでの30万人の「人間の鎖」をつないだ。同年3月の最高議会選挙では、初めて共産党以外の政党が立候補し、民主化勢力も議席を獲得、共産党の権威は急速に失墜した。
 1990年6月、ロシア連邦がソ連から独立して主権宣言を行うと、続いてウクライナ最高会議が7月16日にウクライナ共和国の主権宣言を行った。ソ連のゴルバチョフ大統領は連邦制維持の働きかけを続けたが、1991年8月に保守派クーデターが起こって権力を失墜し、クーデターを収束させたロシア大統領エリツィンが主導権を握ることとなった。

独立ウクライナの成立

 1991年8月24日、最高議会はほぼ全会一致で独立宣言、国名を「ウクライナ」と変更し、さらに12月1日に独立に関する国民投票の結果、投票参加者の90%以上の圧倒的多数の支持で独立を達成した。ロシア系住民がどのような判断をするか注目されたが、ほぼ80%が独立に賛成した。ただし、最もロシア系の多いクリミアでは54%で過半数をようやく上回った。新生ウクライナ大統領には共産党第二書記であったが改革派に転じたクラフチュークが選出された。
CISの結成 ウクライナ独立宣言でソ連の解体が決定的となった。12月にはロシアのエリツィン、ウクライナのクラフチューク、ベラルーシのシュシケヴィッチの三首脳が会談、ソ連邦の解散と「独立国家共同体(CIS)」の結成を宣言した。

ウクライナ(6) オレンジ革命とその後

2004年、ウクライナの大統領選挙で親ロシア政権が敗れ、親西欧派政権が成立した(オレンジ革命)。しかしその後、親ロシア派政権が生まれ、2014年、さらに親ロシア派政権の腐敗に対する批判が強まり、大統領が追放された。それに反発した親ロシア派が、クリミアのロシア編入を住民投票で強行、ウクライナ東部も同調し、深刻な内戦となっている。

ウクライナ国旗  独立を達成したウクライナは、面積は60万3,700平方kmに及び、日本の約1.6倍、ヨーロッパではロシアに次いで広い。首都はキエフ。ウクライナの国旗(右)は上半分の青が青空、下半分の黄色は小麦畑を表すとされている。
クリミア帰属問題 1991年、ソ連邦解体と共にウクライナは独立を達成したが、クリミア半島やウクライナ東部には多くのロシア人を抱え込むこととなった。ウクライナは穀倉地帯であり、工業力も高く、何よりも旧ソ連の核装備したミサイル基地が置かれていた。ウクライナはロシアに核兵器を委譲する代わりに、クリミア半島の領有を認めさせたという。
 ウクライナは黒海に面し、EUに隣接しているという点で、ロシアにとって非常に重要な位置を占めるので、ロシアはウクライナ独立後も関係を重視して、テコ入れを続けた。ウクライナ人の多い東部は、早くから西ヨーロッパ諸国とのつながりを意識し、ロシアの影響力から脱してEUとNATOへの加盟を目指したが、ロシア系住民の多い東部、特にクリミア半島はロシアとの一体感が強く残っており、両者の駆け引きが独立後のウクライナの最大の問題となっていく。

オレンジ革命

 ソ連解体に伴って独立したウクライナで、2004年に行われた大統領選挙において民主化が実現した改革を言う。この年の大統領選挙では、東部を基盤にした親ロシア派の与党ヤヌコーヴィチと、西部を基盤としてEUとの接近をはかることを掲げた野党ユーシェンコの選挙戦となった。開票の結果、ヤヌコーヴィチが勝利したが、野党は大規模な選挙違反があったとして選挙のやり直しを訴え、大規模なデモや集会を繰り返した。ヤヌコーヴィチとロシアは反発したが、結局抗議航行道に押され再選挙が行われた結果、ユーシェンコが勝ち、大統領に就任した。このとき野党側はシンボルカラーのオレンジ色のマフラーを首に巻いて気勢を上げ、その様子はTVを通じて世界中に知られ、「オレンジ革命」と言われた。

クリミア危機から内戦へ

 しかしその後も両派の対立が続き、親西欧派はEUおよびNATOへの加盟を主張し、親ロシア派およびその背後のロシアがそれに強く反発するという事態となった。2014年、ウクライナにウクライナ人政権が成立したのをきっかけに、クリミア半島の住民がロシア編入を掲げ、ロシアの支援で住民投票を強行してロシア編入を決めるというクリミア危機が起こった。
 さらにウクライナ東部のロシア系住民のウクライナからの分離独立を主張、それを認めないウクライナ当局との激しい内戦に突入した。2014年夏には、ウクライナの親ロシア派支配地区上空を航行中のマレーシア航空機がミサイルで撃墜されるという悲劇が起こっている。このような全ヨーロッパの安全保障の危機に直面し、NATOは対ロシアの戦争をも辞さない構えを強めているが、それよりもOSCE(全欧安全保障協力機構)がどれだけ有効に機能するかに期待すべきであろう。
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ノートの参照
第15章1節 カ.ネップとソ連の成立
第15章2節 エ.東欧・バルカン諸国の動揺とイタリアのファシズム
書籍案内

黒川祐次
『物語ウクライナの歴史』
2002 中公新書