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毛沢東

1922年結党の共産党に参加、農村を拠点に勢力を伸ばし、1927年井崗山に根拠地を築き、1931年に瑞金で中華ソヴィエト政府を樹立。その後、国民党との内戦を戦い、長征途上の1935年、遵義会議で党の主導権を握った。延安を拠点に日本との戦争、国共内戦を勝利に導き、1949年、中華人民共和国初代の政府主席となる。建国直後の朝鮮戦争に義勇軍を派遣、アメリカ軍と戦った。1958年に社会主義完成を目指し、大躍進運動を行ったが失敗、さらに中ソ対立で孤立化を深め、1966年からブルジョワ修正主義に反対し階級闘争を継続するとして文化大革命を起こした。劉少奇らを実権派として倒したが、紅衛兵などの造反派の過激な行動で始まった社会の混乱は1976年の死去まで続いた。その後の1978年から始まる鄧小平による改革開放の時期には文化大革命は失敗であり毛沢東の誤りであったと総括されたが、現代中国の建国最大の貢献者であることは否定されず、貢献第一、誤りが第二、と評価されている。


毛沢東(1)共産党創設から権力掌握へ

1921年、中国共産党創設に参加。農民解放に携わりながら1931年に瑞金に中華ソヴィエト共和国を樹立。国民政府軍の攻勢を受け長征を行う。その途次、主導権を握り、延安に根拠地を置く。1937年、日中戦争勃発により国共合作に踏みきり、日本軍との戦いを主導し、1945年に勝利を占めた。

共産党の創設に参加

 もうたくとう。1893~1976。湖南省の農民出身の革命家。中国の長江中流、長沙の師範学校に学び、五・四運動の頃農民運動にはいる。1921年の中国共産党創立大会に参加したが、当初の主導権は陳独秀李大釗などの知識人(インテリ)がもっていた。1924年の第1次国共合作の成立により、中国国民党に入党、農民運動に関わるようになり、地主支配に苦しむ中国農民の解放を強く意識するようになった(1927年の「湖南農民運動視察報告」)。1927年の蔣介石による上海クーデタ国共分裂した後は国民党軍との戦闘で苦戦を強いられ、1927年10月、江西省の山岳地帯の井崗山(せいこうざん)を拠点として抵抗を続けた。

Episode 「政権は銃口から生まれる」

 毛沢東の有名な言葉。1927年7月、国共合作が崩壊して大弾圧を受け、農村に拠点を移した共産党は、都市奪回を目指して秋収蜂起を決定した。そのとき8月7日、武漢で開かれた共産党中央緊急会議(八・七緊急会議)の席上での発言「政権は銃口から得られるということを、どうしても理解しなければならない」からきた。農民のエネルギーに依拠し、武装権力を打ち立てようという明確な路線を示したものであった。このことばは毛沢東の革命思想を端的に言いあらわしたフレーズとして、その後も各地の革命運動に「毛沢東主義」という亜流を生み出すこととなった。

瑞金で中華ソヴィエト共和国を樹立

毛沢東と朱徳
延安での毛沢東(左)と朱徳
 井崗山根拠地では朱徳と共に共産党軍=労農紅軍(紅軍)の組織化にあたった。1931年に江西省瑞金に「中華ソヴィエト共和国臨時政府」を建設してその臨時主席となる。蔣介石軍の執拗な攻撃に追われて瑞金を放棄し、1934年10月~35年10月には国民政府軍と戦いながら「長征」を行った。

共産党の主導権を握る

 当時中国共産党内には、コミンテルンの指示に忠実なソ連留学から帰国したグループが都市での一斉蜂起を主張して主流派を占めていたが、長征の途中の遵義会議において農村に拠点をつくり解放区を広げるという毛沢東の路線が採択されて、ソ連派を排除し、主導権を確立した。長征は1935年10月に陝西省の呉起鎮に到着したことで終了して、新たな拠点(解放区)を建設した。さらに、1937年から拠点を陝西省延安に移し、国民党軍や張学良の東北軍と戦った。これ以降、延安が中国共産党の中心地として、中国政治情勢と日中戦争の一つの焦点となっていった。

第二次国共合作

 コミンテルンは1935年7月、第7回大会を開催して方針を大きく転換し、「反ファシズム人民戦線」を進める方針を打ち出し、それに沿って中国に対しても国民党とのさらなる協力を呼びかけることとなった。それは1935年8月1日八・一宣言として発表され、国民党に対し抗日民族統一戦線の結成を呼びかけた。民衆の中にも1935年12月9日十二・九学生運動が起こって日本の華北分離工作に対する反対の声が強くなり、それらを受けて1936年12月12日張学良蔣介石を西安で監禁し、一致した抗日戦を求めるという西安事件が起こった。共産党は張学良を支持し、周恩来を現地に派遣して蔣介石を説得、当面の内戦を回避に合意させた。
 翌1937年7月日中戦争が勃発したことで共産党と国民党の間で第2次国共合作が成立、それ以降は抗日戦争に全力を挙げることとなり、共産党軍(紅軍)は八路軍などと改称して蔣介石の国民政府軍ととも戦うこととなった。ただし、第1次国共合作と異なり、共産党が国民党に吸収されるのではなく、独自の活動として各地で解放区を広ることは認められた。しかし共産党は農村での地主追放などの革命運動を一時棚上げし、協力して日本軍と戦うことを第一とした。

整風運動

 1941年、太平洋戦争が始まると、共産党は八路軍による華北での抗日戦を続ける一方、毛沢東主導で整風運動を開始した。これは各地で生まれた解放区と言われる革命拠点で農村解放を進めたことにより、共産党員が増大(1937年に4万人であったのが、1940年には20倍の80万人に達した)したことを受け、党員教育を強化したことで、「整」は「引き締める」、「風」は「やり方、行動方針」の意味をもち、マルクス主義の理解を深めるとしつつ、毛沢東路線の徹底をはかる思想統制運動であった。毛沢東は独自路線を取りながら、この段階ではソ連共産党のスターリンを社会主義建設に向かう指導者として認め、その著作の学習を薦めている。しかし同時に整風の手段として取り入れられた「自己批判」の手法は、幹部から一般党員まで徹底して行われ、自由主義・個人主義は排されて党組織への忠誠が優先されていった。整風運動は党を引き締め、党活動を優先する組織的な集団へと強化された上で、1945年には120万の党員を擁するまでになった。

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毛沢東(2) 中華人民共和国の建国

1949年10月、中華人民共和国を建国、国家主席となる。1950年は朝鮮戦争が勃発、北朝鮮を救援するために参戦し、アメリカ軍との苦しい戦いを強いられたが、停戦後は第一次五ヶ年計画による社会主義国家建設を開始する。

国共内戦に勝利

 1945年8月、日本が無条件降伏し、日中戦争が終わり、各地で日本軍の武装解除が行われると、それをめぐって共産党軍と国民党軍が衝突するなど、新国家建設に向けての困難な状況が表面化した。しかし、中国国民は長い戦争からの脱却を強く望み、またソ連のスターリンもこの段階では国民党政府を支持し、共産党にはまだ全土を統治する力をもっていないとみていたので、中国共産党・毛沢東に対し、蔣介石との協議を強く働きかけてきた。毛沢東はスターリンが蔣介石よりであることに不満があったが、国の内外の戦争反対の声に応えるため、国民党と連携を模索、蔣介石と重慶会談を行うことにした。
重慶会談と双十協定 飛行機で延安から重慶に入った毛沢東は、初めて共産党員以外の人々と外国の特派員の前に姿を現すこととなり、その存在を国際的にも広く印象づけることとなった。重慶における会談は、蔣介石が政治・軍事の両面での中華民国への統合を要求、毛沢東は政治面での統合は合意したが、軍事面で完全に従属することを拒否し、合意は困難であったがともかくも1945年10月10日双十協定を締結、内戦を回避し、新中国建設で協力し、国民的合意を造る場として政治協商会議を開催することで合意した。
第2次国共内戦 しかし、双方の不信は解けず、1946年6月、両軍の武力衝突が本格化して再び国共内戦(第2次)に突入した。国民党軍は数の上で約3倍の兵力とアメリカ軍の支援、そして旧日本軍の軍人の参加などで最初は有利な戦いを進めたが、毛沢東の共産党の紅軍は1947年3月に人民解放軍に改称し、解放区での農民の解放を進め、軍事面では旧満州(東北地方)でソ連軍の支援を受けることによって優位に立ち、1948年に中国内部に侵攻し、北京、南京、上海を占領、後半は国民政府軍を圧倒していった。

中華人民共和国の建国

 国共内戦では人民解放軍が各地で国民党軍を破り、毛沢東は北京に入り、1949年10月1日中華人民共和国の樹立を宣言して、中央人民政府主席となった(国家主席となるのは1954年の中華人民共和国憲法に伴ってであるが、一般にこの時から国家主席と担ったと言われることが多い)。国務院(内閣)総理には毛沢東の協力者周恩来が就任した。敗れた中華民国国民政府は、蔣介石・国民党軍ともども、台湾に移った。
 中国共産党を率い、中華人民共和国の建国を実現させた毛沢東は「中国民族を帝国主義侵略から救い、封建社会を一掃して新国家を建国した、救国・建国の英雄」として、絶大な権威を持ち、1976年までその権力を振るうこととなった。国内では当初は新民主主義論を継承して人民民主主義国家の建設を目標としたが、次第に共産党による独裁的な指導を強めた。
中ソ友好同盟相互援助条約 1949年12月、毛沢東は初めての外国訪問に旅立った。行く先はモスクワ、その滞在は翌年2月までに及んだ。毛沢東のスターリンに対する思いは複雑だったと思われる。コミンテルンの支部として発足した中国共産党は、1920年代にはスターリンの指示に従い国民党との国共合作を行い、その結果、上海クーデタなどで苦汁をなめることとなった。またモスクワ留学派の主導で都市での革命運動を行ったがいずれも失敗し、それらの反省から毛沢東は中国共産党の独自路線を打ち立ててきた。また戦後の国共内戦でも、スターリンは国民党の勝利という見通しから、共産党に対する支援は当初、消極的だった。などなど、スターリンに対しては含むものがあったであろう。またスターリンも毛沢東はソ連の指導に従わず、ユーゴのティトーと同じように民族主義的な偏向があるという不信感を抱いていた。しかし毛沢東にとっては新国家建設に向けてアメリカ・西側諸国の支援を得られない情勢の中でソ連は唯一の同盟国となれる大国であったし、スターリンにとっては中華人民共和国の出現は世界の社会主義革命の画期的な事態であり、アメリカ資本主義と決定的な対立に入るうえで同盟しなければならない相手だった。こうして二人は腹の中の不信感を押さえ、1950年2月に、中ソ友好同盟相互援助条約を締結した。
朝鮮戦争 同1950年6月朝鮮戦争では北朝鮮を支援し、冷戦構造の中のアジアでアメリカと対峙する姿勢を強めた。
 朝鮮戦争は建国したばかりの中国に大きな犠牲を強いることになった。毛沢東自身も、北朝鮮軍を支援するために派遣された中国義勇兵に加わった長男が戦死するという打撃を受けた。一時は中国と朝鮮の国境の鴨緑江までアメリカ軍に押されたが、そこから反撃した北朝鮮軍と中国義勇兵は、平壌を奪還、北緯38度線付近まで押し返したところで1953年7月27日朝鮮休戦協定を締結、休戦となった。
 朝鮮戦争休戦後、アメリカとアジアの反共諸国家との間の対共産圏包囲網の形成によって、中国はソ連との関係を重視するとともに、戦後独立を達成したインドやインドネシア、エジプトなどの第三世界との連携に努め、周恩来が積極的な外交を展開した。
社会主義国家建設 1953年6月から「過渡期の総路線」を提唱し、ソ連の技術、資金面での全面的な援助のもとで、第1次五ヵ年計画によって社会主義国家建設をめざすようになった。1954年9月に制定された中華人民共和国憲法の規定により、9月27日、全国人民代表会議において国家主席に選出された。

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毛沢東(3) 大躍進から文化大革命へ

毛沢東は1958年から社会主義国家建設を目指し大躍進政策に取り組んだが、急速な集団化、工業化に失敗し、国家主席を退いた。代わった劉少奇によって経済再建策が進められ、一方でスターリン批判後のソ連との対立が深まると、1966年から修正主義と戦い、階級闘争を維持することを掲げてプロレタリア文化大革命を提起した。同調した紅衛兵など造反派の運動が激化し、劉少奇・鄧小平らを実権派・走資派として失脚に追いこみ、毛沢東個人崇拝が強まった。後継者に指名した林彪がクーデタに失敗して墜落死した1971年以降は造反派の四人組と実務派の周恩来、復権した鄧小平らの主導権争いとなった。1976年に死去したことで四人組が逮捕され革命は事実上終結した。

スターリン批判に対して

 1956年2月、ソ連共産党第20回大会の秘密報告においてフルシチョフ書記長がスターリン批判を行い、その粛清や個人崇拝の弊害が明らかになった。毛沢東はかつて国共合作をめぐってはスターリン(その指示を受けたコミンテルン)と対立した経緯はあったが、戦後の冷戦の下ではアメリカ帝国主義と厳しく対立した姿勢を評価し「功績7分、誤り3分」と考えた。特にフルシチョフが提唱した平和共存路線に対しては強く反発し、帝国主義に屈服するものとして非難した。 → 中ソ対立
 しかし共産党内にもスターリン批判をめぐって動揺が起こり、ソ連型の重工業重視の工業化を進めようとする劉少奇や、スターリンの個人崇拝を否定し集団指導体制を提唱する鄧小平が台頭し、路線をめぐる混乱が現れた。

百花斉放・百家争鳴・反右派闘争

 毛沢東は1957年に「百花斉放・百家争鳴」(双百という)を盛んに行うことを再び提起し、自由な政治批判を呼びかけた。その呼びかけに応じて、共産党以外の民主組織である民主同盟などから共産党一党支配や党指導部の権威主義などに対する批判が現れると、毛沢東は一転してこれらの党批判は右翼反動勢力の言いがかりだとして強く反発し、「反右派闘争」を呼びかけた。それによって民主同盟などの民主勢力はことごとく弾圧され、多数が右派分子として排除され、結果的に共産党一党支配が確立した。この頃から、共産党指導部に対する大衆的な批判は許されないという、不寛容な風潮が一気に強まっていった。これらは1956年10月に起こったハンガリー反ソ暴動などに見られる、共産圏全体の動揺の中での中国共産党の自己防衛ということができるが、中国自体が社会主義建設の路線を堅持するか、ソ連と同じように資本主義との妥協という修正主義に転換していくか、大きな岐路に立たされたことを示していた。

中ソ対立

 続いて1958年から「大躍進」運動を提唱し、第2次五ヶ年計画に入った。その中心課題は中国の伝統技術による鉄鋼増産などの独自工業化と「人民公社」建設という農村集団化であった。おりからソ連ではフルシチョフ政権によるスターリン批判が始まっていたが、毛沢東はフルシチョフ政権の採った「雪どけ」路線(平和共存)を、資本主義の道を歩みアメリカに屈服するものと強く反発した。それを機に、中ソ対立が始まった。1959年6月にソ連は中ソ技術協定破棄を通告、核開発を含む技術者を引き揚げ、中ソ同盟は事実上解消された。フルシチョフは同年9月に訪米してアメリカとの話あい路線を具体化した後、同月中に北京に毛沢東を訪ねて中ソ首脳会談を行ったが、毛沢東は独自路線への転換を崩さず中ソ対立は確実な段階に入った。一方、一時好転しかけた米ソ対立は、60年代に入るとU2型機事件ベルリンの壁の構築、キューバ危機へと向かい、冷戦が最も深刻な状況へと向かう。その間、毛沢東の中国は西側諸国、ソ連とも隔絶した中で独自の社会主義化を模索していった。

大躍進政策の失敗

 独自路線を突き進んだ毛沢東は、第2次五ヶ年計画では第1次五ヵ年計画と違ってソ連の技術援助が得られず、技術革新を伴わない重工業化を進めたため失敗に終わった。同時に展開された農村の「人民公社」建設は社会主義集団農場をめざし、共産社会を実現しようと急速に普及させたが、その強引なやり方から各地でトラブルが生じ、農民の生産意欲を著しく奪ったため、「行き過ぎ」が批判されるようになった。1959年4月の第2期全人代第1回会議では毛沢東は責任をとって国家主席を退任、代わって劉少奇が就任した。

廬山会議

 1959年7月の中国共産党の幹部会である廬山会議では、国防部長彭徳懐による毛沢東批判が行われた。毛沢東は 国家主席の地位を劉少奇に譲っていたが、党主席にとどまっており権力を維持していたので、この彭徳懐の批判を共産党の社会主義建設路線に対する批判であり、自己の権力をも脅かすものとして強い危機感を抱き、彭徳懐を「反党集団」と決めつけ、その国防相の地位を解任した。

大飢饉の発生

 大躍進運動の失敗は、中国の農業・工業生産力が低下して食糧不足がおきたことで顕著になった。おりから1959年から61年の天候不順が3年に及び、農作物の不作は深刻となり、に大飢饉に見舞われ、餓死者が多数でるとい大被害を出した。この時の死者の数は公式の記録がなく、不明であるが、推計によると1500万から4000万に及ぶという驚くべき数字があげられている。明らかに大躍進運動の失敗であり、毛沢東の責任は大きいが、現在でもそれは毛沢東の誤りと言うより、自然災害に要因があり、また集団化を急いだ背景をアメリカ・ソ連との対立という国際的な危機があったため、と説明することが多い。

劉少奇の調整政策

 しかし、1959年4月から国家主席となった劉少奇には、中国の生産力と経済の回復という現実の課題を解決しなければならなかった。1962年1月、中国共産党中央拡大工作会議(七千人大会といわれる)では、毛沢東は公式に大躍進の失敗を認め、劉少奇鄧小平は中国経済の再建のため、イデオロギーを棚上げして経済調整政策を定めた。その柱は農民の保有地、自由市場、生産請負制などを進め、農産物買い上げ価格を大幅に引き上げ、ボーナスを支給するなどによって物質的な意欲喚起を行い、生産を高めようというものだった。実際、この年には経済は回復に向かい、農業生産・工業生産のバランスもとれた上昇を見せた。
 毛沢東は表向きは劉少奇・鄧小平の路線転換に異を唱えなかったものの、機会を捉えては「階級闘争を忘れるな!」と訴え、社会主義路線からの逸脱、あるいは転換を警戒する発言を繰り返した。大躍進の失敗後の中国経済の再建と国家路線をめぐって、毛沢東と劉少奇の意見の対立は次第に鮮明になっていった。

中印国境紛争・キューバ危機

 60年代、並行して中ソ対立は深刻さをましていった。1962年10月にチベット問題から始まった中印国境紛争が起こったが、その直後に1962年10月22日キューバ危機がおきると、毛沢東は、フルシチョフをアメリカ帝国主義に屈服したとして強く非難した。
核開発 国内は大躍進の失敗、大飢饉という困難な状態であったが、毛沢東はアメリカ・ソ連に対抗する大国化を目指した核開発を進め、1964年に中国の核実験を強行し、核軍事大国への建設に向かった。同年8月、トンキン湾事件を口実にアメリカ軍のが北ベトナムを空爆し、ベトナム戦争が本格化したことは、中国の南に隣接するベトナムにアメリカ帝国主義が直接攻撃を仕掛けてきた雄物として、強い危機感を持って迎えられた。

毛沢東の孤立化深まる

 このように1960年代後半の毛沢東は、国内では劉少奇・鄧小平らによる資本主義の復活に強い警戒心を持つとともに、アメリカ帝国主義との戦い、ソ連修正主義との対立(それは国内の修正主義の対等と戦う絵でも不可欠と考えられた)という厳しい状況の中で、次第に孤立感を強くしていったものと思われる。中ソ論争では世界の共産党の多くはソ連共産党を支持し、中国に理解を示したのはアルバニアのみであった。また中国と友好関係の深かったインドネシアスカルノ1965年9月30日の軍部クーデタ九・三〇事件で政権を支えていたインドネシア共産党が崩壊したため、まもなく失脚したことも、毛沢東の国際的孤立を深める理由となった。

文化大革命の提起

毛沢東
紅衛兵の制服を着用した
文化大革命期の毛沢東
 国際的にも国内的にも孤立感を深めた毛沢東は、権力の回復をねらい、1965年11月10日、上海で文芸評論家姚文元が「新編歴史劇『海瑞免官』を評す」でブルジョワ思想の復活を批判したことを受けて、まず文化面での引き締めを図ることから開始し、1966年5月16日に共産党に中央文化革命小組を設置し、ブルジョワ思想や資本主義への復帰を目指す修正主義の取り締まりを指示、「プロレタリア文化大革命」という旗を掲げた(5.16通知)。

毛沢東と紅衛兵

 毛沢東の文化革命の呼びかけに最初に反応したのが北京の学生だった。5月から6月にかけて北京大学や清華大学で大学当局や党委員会を批判する壁新聞(大字報)が張り出され騒然とすると、劉少奇らは工作組を派遣して沈静化を狙ったが、かえって激しい反発を受け、衝突が起こった。この動きに対して毛沢東は学生運動を弾圧するのはかつての蔣介石国民党と同じだ、といって非難し、その責任追求は劉少奇に向けられることになった。さらに1966年5月29日、北京の清華大学附属中学(日本の中学・高校)の中学生のなかから毛沢東の呼びかけに応じるように紅衛兵が活動を開始し、上級幹部や権威的な文化人に対して自己批判を迫る攻撃が盛んになっていった。<竹内実『毛沢東』1989 岩波新書>
 1966年8月には社会主義イデオロギーの危機を訴える文化運動としてプロレタリア文化大革命を正式に指令、紅衛兵らを大動員して大キャンペーンを展開、劉少奇鄧小平ら党内の改良派を、資本主義に走り実権を奪おうとしている分子(走資派・実権派)として激しく批判した。1966年8月18日には北京の天安門広場で大集会が開催され、毛沢東は全国から集まった紅衛兵を激励、その後、北京市街に繰り出した紅衛兵は反革命派、保守派と見なした人々を攻撃しつるし上げを行った。紅衛兵や造反派による同様な集団的、暴力的な追求は1968年ごろまで中国全土で猛威をふるった。1968年10月には国家主席劉少奇の除名と国家主席の解任まで追い込み、また鄧小平も役職を解任されたので、毛沢東が目指した奪権闘争は達成できた。

林彪事件

 1969年には文化大革命が頂点に達したが、毛沢東もそれを収束させることを目指すようになり、1969年4月にその路線を継承する後継者として林彪を指名した。ところが、2年後の1971年9月13日には林彪はクーデタに失敗して、ソ連に逃亡を図り、モンゴルで墜落死するという事件がおこった。その真相は分からないことが多いが、林彪が一挙に毛沢東の実権を奪おうとしたものと考えられる。この林彪事件後は、江青などの四人組が毛沢東の支持のもとで実権を握るようになったが、一方では周恩来を中心とした党幹部の実務官僚は事態の収拾をめざした。
健康状態の悪化  林彪の死後、毛沢東の健康状態は悪化していった。次は毛沢東の侍医だった李志綏のみたその姿は次のようだった。
(引用)……毛主席の肺炎は完全に回復していなかった。また林彪事件以後は肉体的なおとろえが劇的にめだった。さし迫った危機がさり、一味が逮捕され、わが身の安全をさとるや、毛はふさぎこんでしまった。ベッドにひきこもったまま、ほとんど何も言わず、何もしないで一日じゅう横たわっていた。たまたま起きだしたりすると、すっかり老けこんだように見えた。がっくりと肩をおとし、動作はのろかった。足を引きずるようにして歩く。夜は眠れないのであった。<李志綏/新庄哲夫訳『毛沢東の私生活下』1996 文藝春秋社刊 p.317>

中ソ対立と米中関係修復

 1972年2月21日にはアメリカ大統領ニクソンの訪中が実現、それまで長く対立していたアメリカとの関係を国交正常化に大きく転換した。その背後には、1969年3月珍宝島事件などの中ソ国境紛争が続き、中ソ対立が強まっていること、アメリカは長期化するベトナム戦争の終結の機会を狙っていることがあげられる。文化大革命という国内の政治・社会の混乱の一方で、毛沢東(及び外交担当の周恩来が)国際情勢には機敏に対応していることも忘れてはならない。文革最中の1967年には水爆の実験にも成功している。 → 中国の核実験

四人組と周恩来の対立

 しかし、国内政治では、毛沢東は四人組を支持する一方、それを牽制する形で周恩来を重用していたが、1973年3月には周恩来の要請で鄧小平を復権させた。こうして毛沢東の権威の背後で、江青・四人組グループと周恩来・鄧小平グループの暗闘が始まった。
 周恩来・鄧小平は文化大革命の行き過ぎを是正して、国民生活の再建を実現するための経済復興を図ろうとしたが、四人組は1974年に批林批孔運動を開始した。それは林彪とともに孔子を批判することで、その矛先を周恩来・鄧小平に向けたものだった。さらに1975年1月、周恩来が全人代で政治報告を行い、四つの現代化を提唱したが、病に臥すようになって、代わりに鄧小平の活動が活発になった。すると毛沢東は鄧小平の動きを警戒し、『水滸伝』の主人公宋江を信念を曲げた修正主義として論じることによって、鄧小平を暗に批判し、四人組がそれに同調して鄧小平非難を展開した。

第1次天安門事件

 1976年に「不倒翁」といわれた周恩来が死去すると、北京で四人組に反対し、周恩来・鄧小平の路線を支持する市民が暴動を起こした。1976年4月5日、民衆が天安門広場の周恩来を追悼する集会に集まり、四人組打倒の声を上げた第1次天安門事件である。毛沢東は、民衆の反政府活動の盛り上がりを恐れ、鄧小平が民衆を扇動したとして再び失脚させ、四人組を擁護した。しかし、そのころすでに80歳を超えていた毛沢東は、次第に事態を統制する力を失っていった。

毛沢東(4) 死去とその後の中国

1976年9月9日に死去し、文化大革命の終了の契機となった。大躍進政策や文化大革命などの誤った指導が問題とされ、1981年には鄧小平が主導した「歴史決議」によって文化大革命は毛沢東の指導の誤りとされた。しかし、共産党結党以来の中華人民共和国建設に至る功績は揺るぎないものとされ、現在も建国の父としての権威は保っている。

 1976年1月の周恩来に続き、7月6日に人民解放軍の創設者朱徳が死去、7月28日には唐山地震が起こり死者24万という惨事となった。まだその動揺が収まらないなか、1976年9月9日午前零時、毛沢東が82歳で生涯を閉じた。その日の午後3時、全国、全世界に伝えられた。

文化大革命の終焉

 毛沢東の死後、激しい権力闘争が展開され、結局四人組は1976年10月6日に逮捕され、文革穏健派の華国鋒が党主席・党中央軍事委員会主席に就任した。華国鋒の就任は毛沢東の指名があったとされているが、そのもとで文化大革命の継続か方針転換か、をめぐる激しい争いが始まった。華国鋒政権の手によって復活した鄧小平の影響力が強まるなかで、華国鋒が1977年に文化大革命は終了を宣言した。
 1980年には鄧小平が華国鋒を失脚させ、1981年6月27日、「建国以来の党の若干の歴史的問題についての決議」(歴史決議)を出して中国政府は正式に文化大革命の誤りを認め、失権した人々の名誉を回復した。こうして中国は改革開放政策を進め、さらに資本主義経済の導入へと言う大転換を図ることとなる。

文化大革命と毛沢東の評価

 1981年6月、中国共産党は、「建国以来の歴史についての問題に関する決議」を審議・採択した。その要点は文革と毛沢東の評価であった。文革は「毛主席が呼びかけ指導したもので、………党と国家と各民族人民に多大な災難をもたらした内乱である。………事実にもとづけば完全な誤りで、如何なる意味においても革命とか社会進歩ではなかった」と厳しく結論づけている。また毛沢東評価では「文革で重大な誤りを犯した」、しかし「彼の一生を見れば功績が第一で、誤りが第二である」と位置づけられた。<天児慧『中華人民共和国史新版』2013 岩波新書 などによる>

Episode 天安門上の永遠の微笑み

 その死後、毛沢東についてはさまざま論評がなされ、中には暴露本のようなものもあり、その人並外れた権力欲などが明らかにされた。そのすべてに眼を通す余裕はないが、毛沢東の侍医だった李志綏が書いた『毛沢東の私生活』上下二冊(文春文庫)はキワモノではなく、間近から見た知られざる独裁者の実像を伝えていて面白い。
 文化大革命が否定され、毛沢東の誤りであったと中国共産党が公式に表明したことで、毛沢東崇拝は終わった、と思われた。とすると、あの北京の天安門場に掲げられた毛沢東の大肖像画はどうなるのだろうか。誰でも関心を持った。それに対する鄧小平の答えは次のようなものだった。
(引用)1980年8月21日、鄧小平はイタリアの女性記者ファラーチのインタビューを受けた。ファラーチの最初の質問は「天安門の上にある毛主席の肖像は永久にそのままなのか」であった。鄧小平は明解にきっぱりと答えた。「永久にそのままである」。彼は続けて言った。「我々は永久に毛主席を我が党と国家の創設者として記念する」、「彼の一生の功績と過誤に対しては客観的に評価しなければならない。毛主席の功績は第一、過ちは第二である」。<楊継繩/辻康吾他編訳『文化大革命五十年』2019 岩波書店 p.180>