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毛沢東(1)

1921年、中国共産党創設に参加。農民解放に携わりながら31年に瑞金に中華ソヴィエト共和国を樹立。国民政府軍の構成を受け長征を行う。その途次、主導権を握り、延安に根拠地を置く。国共合作成立後は、日本軍と戦い、45年に勝利を占める。

 → (2)中華人民共和国の建国  (3)大躍進から文化大革命へ  (4)毛沢東の死去

共産党の創設に参加

 もうたくとう。1893~1976。湖南省の農民出身の革命家。中国の長江中流、長沙の師範学校に学び、五・四運動の頃農民運動にはいる。1921年の中国共産党創立大会に参加したが、当初の主導権は陳独秀李大釗などの知識人(インテリ)がもっていた。1924年の第1次国共合作の成立により、中国国民党に入党、農民運動に関わるようになり、地主支配に苦しむ中国農民の解放を強く意識するようになった(1927年の「湖南農民運動視察報告」)。1927年の蔣介石による上海クーデターによる国共分裂後は国民党軍との戦闘で苦戦を強いられ、9月、江西省の山岳地帯に逃れ井崗山(せいこうざん)を拠点として抵抗を続けた。

瑞金で中華ソヴィエト共和国を樹立

 井崗山根拠地では朱徳と共に共産党軍=労農紅軍(紅軍)の組織化にあたった。1931年に江西省瑞金に「中華ソヴィエト共和国臨時政府」を建設してその臨時主席となる。蔣介石軍の執拗な攻撃に追われて瑞金を放棄し、1934~35年10月には国民政府軍と戦いながら「長征」を行った。
毛沢東と朱徳
延安での毛沢東(左)と朱徳

共産党の主導権を握る

 当時中国共産党内には、コミンテルンの指示に忠実なソ連留学から帰国したグループが都市での一斉蜂起を主張して主流派を占めていたが、長征の途中の遵義会議において農村に拠点をつくり解放区を広げるという毛沢東の路線が採択されて、ソ連派を排除し、主導権を確立した。長征の後、1937年から拠点を陝西省延安に設け、国民党軍や張学良の東北軍と戦った。

第二次国共合作

 おりから強まっていた日本の帝国主義的侵略と戦うため、長征の途次の1935年に八・一宣言を出して国民党に対し抗日民族統一戦線の結成を呼びかけ、さらに1936年の西安事件を機に両者は接近し、1937年に日中戦争が勃発すると、第2次国共合作を成立させ、以降は抗日戦争に全力を挙げることとなる。八路軍などと改称した共産党軍は日本軍と戦うと共に各地で解放区を広げ、土地改革を進めて農民の支持を拡大していった。

毛沢東(2) 中華人民共和国の建国

1949年10月、中華人民共和国を建国、国家主席となる。1950年は朝鮮戦争が勃発、北朝鮮を救援するために参戦し、アメリカ軍との苦しい戦いを強いられたが、停戦後は第一次五ヶ年計画による社会主義国家建設を開始する。

国共内戦に勝利

 毛沢東は1945年8月の日本の敗北後は国民党と連携を模索、蔣介石と重慶会談を行っていったん協定を成立させたが結局は決裂し、再び国共内戦(第2次)に突入した。共産党軍(人民解放軍と改称)は各地で国民党軍を破り、毛沢東は人民解放軍を率いて北京に入り、1949年12月、中華人民共和国を樹立して国家主席となった。国務院(内閣)総理には毛沢東の協力者周恩来が就任した。
 このように毛沢東は中国民族を帝国主義侵略から救い、封建社会を一掃して新国家を建国した、救国・建国の英雄として、1976年まで絶大な権力を振るうこととなる。

Episode 「政権は銃口から生まれる」

 毛沢東の有名な言葉。1927年、国共合作が崩壊して大弾圧を受け、農村に拠点を移した共産党は、都市奪回を目指して秋収蜂起を決定した。そのときの八・七緊急会議の席上での発言「政権は銃砲から得られるということを、どうしても理解しなければならない」からきた。農民のエネルギーに依拠し、武装権力を打ち立てようという明確な路線を示したものであった。

建国期の苦難

 1950年にはソ連のスターリンと会談し、中ソ友好同盟相互援助条約を締結、同年の朝鮮戦争では北朝鮮を支援し、冷戦構造の中のアジアでアメリカと対峙する姿勢を強めた。国内では当初は新民主主義論を継承して人民民主主義国家の建設を目標としたが、次第に共産党による独裁的な指導を強めた。1953年から「過渡期の総路線」を提唱し、ソ連の技術、資金面での全面的な援助のもとで、第1次五ヵ年計画によって社会主義国家建設をめざすようになった。
 この時期、毛沢東はソ連との関係を重視するとともに、戦後独立を達成したインドやインドネシア、エジプトなどの第三世界との連携に努め、周恩来が積極的な外交を展開した。

毛沢東(3) 大躍進から文化大革命へ

1958年から大躍進政策に取り組むが、急速な集団化、工業化に失敗し、国家主席を退く。一方でスターリン批判後のソ連との対立が始まる。1966年から権力の巻き返しを図り、文化大革命を提起し、個人崇拝を強めた。1976年に死去。

 1949年に中華人民共和国を建国し、国家主席となった毛沢東は、東西冷戦のなかで朝鮮戦争を戦て大きな犠牲を払いながら権力の維持に成功し、社会主義国家建設に意欲を強めた。1953年からの第1次五ヵ年計画をほぼ成功させ、国内権力の基盤を固めた。

中ソ対立

 続いて1958年から「大躍進」運動を提唱し、第2次五ヶ年計画に入った。おりからソ連ではフルシチョフ政権によるスターリン批判が始まった。毛沢東はスターリン批判後のソ連のフルシチョフ政権の採った「雪どけ」路線を、資本主義の道を歩みアメリカに屈服するものと強く反発した。それを機に、中ソ対立が始まった。1959年にはソ連は中ソ技術協定破棄を通告、核開発を含む技術者を引き揚げ、中ソ同盟は事実上解消された。

大躍進政策の失敗

 そのため、第2次五ヶ年計画では第1次五ヵ年計画と違ってソ連の技術援助が得られず、技術革新を伴わない重工業化は失敗に終わった。同時に展開された農村の「人民公社」建設は、農民の生産意欲を著しく奪い、おりからの天候不順もあって大飢饉に見舞われ、餓死者数千万人という大被害を出して失敗した。そのような状態にもかかわらず、アメリカ・ソ連に対抗する大国化を目指した毛沢東は独自の核開発を進め、1964年に中国の核実験を強行し、核軍事大国への建設に向かった。

実務派=走資派の台頭

 1959年の中国共産党の幹部会である廬山会議では、彭徳懐による批判が行われ、自己批判を迫られた毛沢東は 国家主席の地位を劉少奇に譲り、党主席にとどまったがその権力を失う危機に至った。自らは党主席として権力の維持を図ったが、党内に劉少奇に続き、鄧小平らの実務派が台頭、荒廃した農村と工業を復興させるための改革が始まった。
毛沢東
紅衛兵の制服を着用した
文化大革命期の毛沢東

文化大革命の提起

 国際的にも国内的にも孤立感を深めた毛沢東は、権力の回復をねらい、1966年から、社会主義イデオロギーの危機を訴える文化運動としてプロレタリア文化大革命を指令、林彪が抑える軍の支持を受け、夫人江青など四人組といわれるグループを動かして、紅衛兵を動員して大キャンペーンを展開、劉少奇鄧小平ら党内の改良派を資本主義に走り、実権を奪おうとしている分子(走資派・実権派)として批判、失脚させた。

毛沢東の神格化

 文化大革命が進行する中で、江青などの四人組は毛沢東を神格化し、その庇護の下で権力を維持しつつけた。 1969年は文化大革命が頂点に達し、毛沢東はその路線を継承する後継者として林彪を指名した。ところが、2年後の71年には林彪はクーデターに失敗して、ソ連に逃亡を図り、モンゴルで墜落死するという事件がおこった。その真相は分からないことが多いが、林彪が一挙に毛沢東の実権を奪おうとしたものと考えられる。この林彪事件後は四人組が実権を握るようになった。
 1972年2月にはアメリカ大統領ニクソンの訪中が実現、それまで長く対立していたアメリカとの国交正常化に大きく前進した。しかし、国内政治では、毛沢東は四人組を牽制する形で周恩来を依然として重用し、1973年には鄧小平を復権させた。こうして文化大革命の背後で、江青・四人組グループと周恩来・鄧小平グループの暗闘が始まった。  周恩来・鄧小平は文化大革命の行き過ぎを是正して、国民生活の再建を実現するための経済復興を図ろうとしたが、四人組は73年に批林批孔運動を開始し、その矛先を周恩来・鄧小平に向けた。さらに1975年、周恩来は鄧小平を結んで、四つの現代化を提唱すると、毛沢東は『水滸伝』の主人公宋行を信念を曲げた修正主義として論じることによって、鄧小平を暗に批判し、四人組がそれに同調して鄧小平非難を展開した。

第1次天安門事件

 1976年に「不倒翁」といわれた周恩来が死去すると、北京で四人組に反対し、周恩来・鄧小平の路線を示威する市民が暴動を起こした。これが第1次天安門事件である。毛沢東は、民衆の反政府活動を畏れ、鄧小平を民衆扇動したとして再び失脚させ、四人組を擁護した。しかし、そのころすでに80歳を超えていた毛沢東は、次第に事態を統制する力を失っていった。

毛沢東(4) その死去と文化大革命の終焉

1976年9月9日に死去し、文化大革命の終了の契機となった。大躍進政策や文化大革命などの誤った指導が問題とされているが、現在も中華人民共和国の建国の父としての権威は保っている。

 1976年1月の周恩来に続き、7月6日に人民解放軍の創設者朱徳が死去、7月28日には唐山地震が起こり死者24万という惨事となった。まだその動揺が収まらないなか、9月9日午前零時、毛沢東が82歳で生涯を閉じた。その日の午後3時、全国、全世界に伝えられた。

毛沢東の死後

 毛沢東の死後、激しい権力闘争が展開され、結局四人組は10月6日に逮捕され、文革穏健派の華国鋒が党主席・党中央軍事委員会主席に就任した。華国鋒の就任は毛沢東の指名があったとされているが、そのもとで文化大革命の継続か方針転換か、をめぐる激しい争いが始まった。華国鋒政権の手によって復活した鄧小平の影響力が強まって中国は改革開放路線をとることとなり、77年に文化大革命は終了を宣言した。
 1980年には鄧小平が華国鋒を失脚させ、1982年には中国政府は正式に文化大革命の誤りを認め、失権した人々の名誉を回復した。こうして中国は改革開放路線から資本主義経済の導入へと言う大転換を図ることとなる。

文化大革命と毛沢東の評価

 1981年6月、中国共産党は、「建国以来の暦して問題に関する決議」を審議・採択した。その要点は文革と毛沢東の評価であった。文革は「毛主席が呼びかけ指導したもので、………党と国家と各民族人民に多大な災難をもたらした内乱である。………事実にもとづけば完全な誤りで、如何なる意味においても革命とか社会進歩ではなかった」と厳しく結論づけている。また毛沢東評価では「文革で重大な誤りを犯した」、しかし「彼の一生を見れば功績が第一で、誤りが第二である」と位置づけられた。<天児慧『中華人民共和国史』1999 岩波新書 などによる>
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ノートの参照
第15章3節 ウ.国民党と共産党
第15章4節 ウ.満州事変・日中戦争と中国の抵抗
第16章1節 ウ.東アジア・東南アジアの解放と分断
第16章3節 ウ.動揺する中国
書籍案内

竹内実
『毛沢東』
1989 岩波新書

天児慧
『中華人民共和国史新版』
岩波新書