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鄧小平 (1)文化大革命中の苦難

中国共産党の指導者。毛沢東を支え共産党と中華人民共和国建国の実務を取り仕切る。1858年、大躍進の失敗から経済改革に乗り出すが、毛沢東によって走資派と批判され、文化大革命中は二度にわたって失脚する。

 鄧小平は、現代の中国で最も重要な存在となった政治家の一人といえる。1904年に四川省に生まれ、洪秀全や孫文と同じく、客家の出身といわれている。1920年、16歳でフランス「勤工倹学」(働きながら学ぶこと)に参加し、パリなどで苦学しながら中国共産党に入党した。同じころ勤工倹学でフランスに渡り共産党の活動を始めた先輩が周恩来であった。1926年にはモスクワを経由し、27年に中国に戻ると、国民党による激しい弾圧が始まっており、広西地方でゲリラ戦を指導することとなった。長征中の35年、遵義会議では毛沢東を支持、それ以後共産党の中枢として、抗日戦争、国共内戦を戦い、特に八路軍の副指揮官としての活躍は広く知られた。1949年の中華人民共和国建国後は国務院副総理や党の総書記を務め、党の実務面で毛沢東を支えた。
 → 鄧小平の時代

Episode 小さな巨人、鄧小平

 山椒は小粒でもピリリと辛いというが、鄧小平は身長150cmでも毛沢東から一目置かれていた。毛は鄧小平を評して「綿中に針を蔵す」、つまりあたりや柔らかいがシンには鋭いものをもっているといっている。また1957年に鄧小平らを率いてソ連に行き、フルシチョフにあったとき、鄧小平を「あのチビを甘く見てはいけませんぞ。彼は蒋介石の精鋭百万をやっつけたのです」と紹介したという。<矢吹晋『鄧小平』1993 講談社現代新書 p.8>

文化大革命で苦境に立つ

 しかし1958年からの「大躍進」運動の総括をめぐって対立が始まり、批判が強まることを警戒心した毛沢東文化大革命を開始すると、劉少奇と共に資本主義への道を歩む走資派、実権派として激しく批判され、文革期を通じ2度の失脚と復活を繰り返すこととなる。(長征期に親ソ派から、毛沢東に近いと言うことで主流派をはずされたことも加えれば、生涯に三度失脚した。)
最初の失脚 文革初期の1966年末、毛沢東により、劉少奇と共に走資派・実権派として役職を解任される。失脚中はトラクター工場で働いたという。林彪事件後の中国経済立て直しを目指した周恩来の努力で、73年3月に復活したが、文化大革命を推進する四人組とは対立が深まった。
二度目の失脚 文化大革命末期の1976年、後ろ盾の周恩来が死去し、北京の民衆が反四人組の声を上げ、第1次天安門事件が起こると、毛沢東および四人組によってその責任をとらされる形で再び失脚した。

Episode 鄧小平の「白猫黒猫論」

 鄧小平はいろいろおもしろい発言を残している。その中で最も有名なのが「白猫黒猫論」だろう。1962年7月7日、共産主義青年団の若者に対して語った言葉の中に、「白い猫であれ、黒い猫であれ、ネズミを捕ればよい猫だ」という四川地方のことわざを引いて(実際には白猫ではなく黄猫だそうだが)、蒋介石軍を破ったときの経験から、物事にとらわれてはいけない、状況次第で現実に対応し、結果がよければよい、と説いたとされている。毛沢東的な階級闘争のイデオロギーにとらわれるなという鄧小平の現実主義を言っているとして当時から人々に受け止められたが、鄧小平は盛んにその発言を打ち消したという。<矢吹晋『鄧小平』1993 講談社現代新書 p.71>

鄧小平 (2)鄧小平の時代

毛沢東の死後の華国鋒政権の下で1977年7月に復権した。文化大革命後の混乱の収束を進め、78年に華国鋒を追い落とし、79年から改革開放路線を明確にした。80年代~90年代にかけて政治権力を集中させて鄧小平時代を出現させ、経済面では資本主義の大胆な導入に踏み切ったが、共産党一党独裁の政治体制は頑強に維持しようとした。そのため、第2次天安門事件などの民主化運動を厳しく弾圧した。鄧小平の路線はその後の中国に継承され、中国が経済大国に転換する基礎を築いた。

鄧小平の復権

 1976年9月の毛沢東死去の後、華国鋒政権のもと、鄧小平の復活への待望論が高まった。鄧小平は二度、華国鋒に書簡を送り、華国鋒を指導者として絶賛し、自己の誤りを反省していることを伝えた。1977年7月、中共第10期三中全回は、「四人組」の党からの永久追放とともに鄧小平の全職務の回復を決定した。これによって鄧小平は中央政治局常務委員、党副主席、国務院副総理、中央軍事委員会副主席兼総参謀長に復帰し、華国鋒、葉剣英に次ぐナンバー3の地位を確保した。

鄧小平政権の成立

 鄧小平は1977年に復活を遂げ、1978年1月の第5期全国人民代表会議(全人代)第1回会議でその主導の下に「近代化された社会主義」を目指す新憲法が採択され、経済発展を目指す改革開放路線を打ち出した。さらに、1978年12月、「歴史的な転換」とも言われる中共第11期中央委員会第3回総会(三中全会)で華国鋒を批判し、代わって実質的に会議をリードした。鄧小平は、「党と国家の重点工作を近代化建設に移行する」と宣言し、建国以来毛沢東およびその路線によって揺れ動かされた中国は、新たな鄧小平時代へと一歩を進めることになった。<天児慧『中華人民共和国史』1999 岩波新書>

近代化路線への舵取り

 1979年1月にはアメリカのカーター大統領との交渉によって、米中国交正常化を実現させ、自らも渡米して科学技術協力協定などを締結した。この年は、中国が大きく路線を転換させ、改革解放路線。言いかえれば共産党一党独裁の元での資本主義の導入という新たな試みに着手した年となった。
 鄧小平は当初は表舞台には立たなかったが、1980年には華国鋒首相を辞任させ、権力を集中させた。同時に中国社会主義の柱であった人民公社に対して、その日生産性を批判して、82年に「人民公社の解体」を断行し、「社会主義市場経済の導入」という大胆かつ積極的な改革開放路線に中国の舵を切った。
1979年の世界的転換 1979年、世界では、1月のイラン革命からイスラーム圏の激動が始まり、12月にはソ連のアフガニスタン侵攻はソ連崩壊への始まりと同時に新たなアラブ過激派の台頭の要因となった。また同年、イギリスではサッチャー政権が誕生し、資本主義社会は新自由主義の導入による混迷の時代に突入した。

最高実力者として

 鄧小平政権下で、「中国独自の社会主義の建設」という理念のもと、1980年代以降の中国経済の驚異的な成長を実現させた。それを支えた実務官僚が、党務の胡耀邦、政務の趙紫陽であった。
 1982年9月、中共第12回全国大会で、胡耀邦が「政治報告」を行い、今世紀末までに80年の工農業生産総額の4倍増の実現・・・などの目標を掲げた。指導体制としては革命イメージを払拭し、集団指導体制を確立する意味から党主席制を廃止、総書記制を導入し胡耀邦が総書記に就いた。鄧小平自ら最高ポストに就くことを避けたが「最高実力者」であることは誰の目にも明らかで、総書記胡耀邦と国務院総理趙紫陽を左右に従えた「鄧胡趙トロイカ体制」が成立した。
 同大会では、外交のウエートも近代建設のために、次第に「世界平和擁護」「平和的国際環境の建設」に移り、「自主独立路線」とともに「平和共存五原則」が強調された。また、台湾問題では従来の「武力解放」政策から、「平和的統一」政策への転換が図られ、香港も含め「一国二制度」による「祖国の統一」が力説された。
 1950年代から続く中ソ対立についても、1989年5月にソ連のゴルバチョフ書記長が中国を訪問して鄧小平と会談、中ソ関係の正常化が実現した。

四つの基本原則の堅持

 鄧小平の台頭は、経済の近代化にとどまらず、「政治の近代化」=民主化、に進むのではないか、という期待を人々に抱かせた。しかし、鄧小平は「四つの現代化」実現のためには、「四つの基本原則」を堅持しなければならないと力説した。それは、
 1.社会主義の道
 2.プロレタリア独裁(後に人民民主主義独裁と表現)
 3.共産党の指導
 4.マルクス・レーニン主義、毛沢東思想
の四つである。共産党一党支配に対する批判は許さないことを柱とする「四つの基本原則」によって、民主化運動家の魏京生を逮捕するなどきびしい姿勢を貫いた。以後、文学・思想界でも保守派の「ブルジョア自由化反対」と改革派の主張の対立が続く。

第2次天安門事件の弾圧

 中国共産党内にも「ブルジョア自由化反対」を唱え、改革開放路線を危険視する李鵬などの保守派の勢力も強く、鄧小平は胡耀邦、趙紫陽などの改革派とのバランスを巧みにとりながら、政局の安定に努めたが、ついに子飼いの胡耀邦を改革路線の行き過ぎという理由で解任した。改革開放路線の中で成長した市民はさらに民主化を求め、鄧小平政権との緊張感が高まっていった。
 1989年に胡耀邦が死去すると、学生・市民がその死を悼んで追悼集会を開催した。鄧小平はそれが反政府暴動に発展することを恐れて一挙に弾圧し、学生・市民に同調した総書記趙紫陽も解任するという第2次天安門事件が起こった。その強圧的な人権抑圧の姿勢は、世界的な批判を受けることとなった。

鄧小平路線の継承

 鄧小平は経済改革の実行者という面と保守的な人権抑圧の権力者という面を併せ持つ指導者であった。第2次天安門事件で中国の開放路線は一時停滞したが、鄧小平は後継者として実務派の江沢民を指名した。江沢民は改革開放路線を推し進め、イギリスと交渉して「一国二制度」による香港返還を約束させ、1990年代から現在に至る驚異的な経済成長をもたらした。  鄧小平は1997年に死去したが、江沢民・胡錦涛・温家宝というその後継者たちは、鄧小平の二面性をそのまま継承した。<矢吹晋『鄧小平』1993 講談社現代新書、天児慧『中華人民共和国史』1999 岩波新書 などによるまとめ>
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第16章3節 ウ.動揺する中国
書籍案内

矢吹晋
『鄧小平』
講談社学術文庫

天児慧
『中華人民共和国史新版』
岩波新書