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人民公社

中華人民共和国の社会主義建設の柱とされた集団農場。1958年の大躍進運動で具体化され、中国全土に建設されたが、次第に生産性が低下し、1982年に解体された。

 中華人民共和国毛沢東の主導権の下、1958年に始まる「大躍進」運動の中で建設が推進された、集団化された農業組織。「公社」とは「コミューン」の訳語。第1次五ヵ年計画での農業集団化で始まった合作社を発展させたもの。
(引用)人民公社とは、一郷一社の規模を基本とし、従来の権力機構(郷人民政府、郷人民代表大会)と合作社を一体化し(政社合一)、その中では農業・工業・商業・文化・教育・軍事を互いに結びつけ、集団生産・集団生活を主とした自力更生・自給自足の地域空間を目指したもので、中国における共産主義の基層単位と見なされた。人民公社化は、58年8月末には全農家の30.4%が参加し、12月末には99.1%、計2万6578社に達している。<天児慧『中華人民共和国史』1999 岩波新書>

人民公社の問題

(引用)急速な人民公社化は、多くの場合物質的、制度的条件が整わないままで実施したため、看板だけが人民公社で、実際には従来の合作社のままといったものが多かった。さらに人民公社は「一平二調」つなわち「働いても働かなくとも同じ」といった悪平等主義と、上からの命令・調達主義による農民の生産意欲の大幅低下といった現象が広がった。その上、「自由に食べられる」人民食堂など「共産風」による食料や資材の大浪費を招いた。<天児慧『中華人民共和国史』1999 岩波新書>
<天児慧『中華人民共和国史』1999 岩波新書>

人民公社の解体

文化大革命の時期から人民公社の行き詰まりが進み、文革後の鄧小平路線のもとで改革開放路線がとられることになり、1982年に解体された。

 中国の社会主義集団農場として1958年以来存続した人民公社は、鄧小平政権の経済近代化政策の推進により、1982年に解体された。集団農業の転換は、密かに進んでいた。75年以来四川省の党第一書記趙紫陽は、経営管理の下放(権限譲渡)、家庭副業の奨励などによって77年に大豊作を勝ち取り、78年には自留地を大幅に拡大し、生産管理の作業組請負制(包産到組)を導入、従来の人民公社の共同経営・共同労働方式を緩める政策を採った。これは後に「四川の経験」と言われるようになる。安徽省では党第一書記万里のもとで農家生産請負制が広まり、黒字に転化させた。80年には鄧小平が「農家生産請負制」を明確に支持する態度を示し、一気に全国に広がった。そして82年11月末から12月にかけて第5期全人代第5回大会で新憲法が年末に討議・採択され、そこにおいて正式に「人民公社の解体」が決定された。人民公社の解体、郷人民代表大会・郷人民政府の樹立と農家生産請負制の普及は急ピッチで進み、84年末にその移行は完了した。請負制の広がりとともに、農民は生産意欲を大いに高め、84年には史上初めて食糧生産が4億トンを突破するなど飛躍的な増産を勝ち取った。<天児慧『中華人民共和国史』1999 岩波新書 などによる>
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第16章3節 ウ.動揺する中国
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天児慧
『中華人民共和国史』
1999 岩波新書