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中華人民共和国

1949年10月に成立した、中国共産党が全権を握った社会主義国家。毛沢東が初代国家主席となった。建国直後、朝鮮戦争が起こり、北朝鮮を支援してアメリカと戦う。その後アジアにおける社会主義の大国として歩む。五カ年計画で工業化を強行したが、失敗し60年代後半から文化大革命という混乱期を迎える。毛沢東死後、鄧小平が復活して改革開放路線をとり、経済の資本主義化に踏み切る。

 国共内戦(第2次)に勝利した中国共産党は、1949年6月、新たな国家を建設するため、国民党系を除く全国各界の重要人物を集めた新政治協商会議準備会議を開催して建国の基本方針を討議し、9月には正式に人民政治協商会議を招集、ここで国号を中華人民共和国、首都を北京と改名(それまでは北平といわれた)とした。
 中央の人民政府の基本的な構成として政府主席毛沢東、副主席には朱徳、劉少奇(以上共産党員)の他、共産党以外から3名が選ばれた。政務院総理周恩来が就任した。同時に、それまでの北平を北京と改めて首都とし、国旗として五星紅旗、国家として「義勇兵行進曲」を制定した。

建国当初の国家理念

 この中華人民共和国の成立については次のような指摘がある。
(引用)1949年10月1日の中華人民共和国の成立を二つの点で誤解しがちである。第一はこの時点で国家体制が確立したという誤解であり、第二はこの時点で社会主義国家もしくは共産主義国家になったという誤解である。中華人民共和国は「新民主主義国家」としてスタートしたのであり、国家体制では戦時体制が続き、暫定的な措置の色彩が強かった。最高権力機関として位置づけられた全国人民代表大会の設置もまだ実現しておらず、それに代わる機関として統一戦線的な「中国人民政治協商会議(略して政協)」が継続し、さらにまだ憲法も制定されていなかった。また、政協の党派代表のうち、142名のうち、共産党代表はわずか16名にすぎず、国民党革命委員会、民主同盟などという党派と同数だった。政府にあたる政務院にも多数の非共産党系指導者が参加していた。この段階の中国の基本理念は「新民主主義論」であり、人民民主主義を政治的基盤として、工業化を図り、近代国家を建設するというものであった。このような「新民主主義論」段階は当初、相当な年月の後に社会主義段階にいうすると考えられていたが、冷戦の深刻化の中で中国自身が朝鮮戦争をアメリカと戦うこととなったのを契機に、1952年から急速な社会主義国家建設へと毛沢東の方針が転換し、共産党独裁国家に変質する。<天児慧『中華人民共和国史』1999 岩波新書などより要約>
 → 1953年の第1次五カ年計画(中国)と1954年の中華人民共和国憲法

中華人民共和国の国旗

 1949年10月1日の建国の日に、国旗は五星紅旗と定められた。五星紅旗は、革命と社会主義(そして将来の共産主義社会建設)を示す赤色の上に、中国共産党を象徴する大きな星と、勤労者・農民・知識人・愛国的資本家の人民4階級を表す小さな4つの星が配置されており、5つの星は同時に漢民族と満州人、モンゴル人、ウイグル人、チベット人の5民族の統合を意味するとも言われる。

中華人民共和国の承認

 1949年の建国直後に、ソ連・東欧諸国・インドが承認した。西側諸国で最初に承認したのは、1950年のイギリス。アメリカ・日本などは、台湾の国民政府を中国の正統な代表として、中華人民共和国を長く認めてこなかった。国際連合における代表権もソ連などは中華人民共和国に与えるよう主張していたが、アメリカの反対で実現しなかった。1960年代末にベトナム戦争の行き詰まり、中ソ対立などの情勢の変化をうけたアメリカと中国が接近し、アメリカが中華人民共和国承認に路線を変更した。こうして、1971年に国連総会が中華人民共和国の代表権を認め、中華民国(台湾)を追放、アメリカも翌72年にニクソン大統領が訪中を実現し事実上の承認を与え、1979年に正式に国交を正常化させた。日本も72年に田中角栄首相が訪中して国交を正常化させた。
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ノートの参照
第16章1節 ウ.東アジア・東南アジアの解放と分断