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アムリットサール事件

1919年、ローラット法に反対したインド民衆にイギリス軍が発砲し虐殺した事件。

 イギリスが第一次世界大戦後にローラット法を制定し、インドの民衆運動の取り締まりを強化したのに対し、インド各地で激しい反対運動が起こった。このころ運動の指導に乗り出したガンディーは、非暴力・不服従運動(第1次)を呼びかけ、1919年4月6日には全国でハルタール(同盟休業)が実行された。

民衆の反英暴動起きる

 それに対してイギリス当局は暴力をもって弾圧に当たり、一部では民衆も反撃し、暴力事件に転化してしまった。パンジャーブ地方のアムリットサール市では憤激した民衆が暴動に走った。特にパンジャーブ地方のアムリットサールやラホールでは暴徒が銀行や郵便局に放火し、イギリス人を殺害するという事件が起こった。ガンディーはこの暴走を抑えようとパンジャーブに向かったが途中で逮捕されてしまった。1919年4月13日、ガンディー逮捕に憤激したアムリットサールの民衆は、集会禁止にもかかわらず2万人が結集して抗議をはじめたが、それに対してダイヤー将軍の指揮するイギリス軍(ネパール人のグルカ兵が動員された)が無防備の群衆に発砲し、379名を殺害、多数の負傷者を出した(会議派の調査では死者1200名、負傷3600名)。この事件はインド民衆に決定的な反英感情を植え付けることとなったが、ガンディーは非暴力の抵抗が貫徹できなかったことに衝撃を受け、みずからの指導の過ちを認めて、一旦運動を停止した。

非暴力の理念、崩れる

(引用)出入り口の一つしかない公園に軍隊と機関銃を配し、高い塀をよじ登って逃げようとする人々に‘弾がなくなるまで’撃ち続けた行為は、イギリス人の残虐さを象徴するものとしてインド人を震え上がらせ、また憤激させた。つづいてパンジャーブに戒厳令が敷かれ、無差別逮捕、公開鞭打ちなども行われているのに、何が起こっているのか他州に極秘にされたことも、イギリスへの不信となった。・・・この事件を‘英印関係史の転換点’と見る人は多い。・・・さらにこの処理をめぐるイギリス人の態度も、インド人の神経を逆撫でした。たとえばこの事件の責任者ダイヤー将軍には‘帝国の功労者’として一般人からつのった2万ポンドが贈られたのであった。<長崎暢子『ガンディー』1996 現代アジアの肖像 岩波書店 p.132-133>

Episode ガンディーの「ヒマラヤの誤算」

 ローラット法が施行されたことにガンディーは大きな衝撃を受け、ただちに民衆に一斉休業(ハルタール)を呼びかけた。それは一日の仕事を休んで断食することでイギリスに抗議しようとするもので、デリーを始め各地で実行された。イギリスはガンディーを危険人物として逮捕した。その報が伝えられると各地で抗議デモが広がり、ボンベイでも衝突が起こり、アムリットサールではついに多数の死者がでた。ガンディーは、この事態に、自らのサティヤーグラハ運動が十分理解されていないことを知り、自分が重大な間違い-彼はそれを「ヒマラヤの誤算」と呼んだ-だったと気づいた。なぜそれが誤算だったのか、自伝で彼の言っていることはこういうことである。
(引用)考えてみると、早すぎた非服従運動のようにわたしにはみえたからであった。・・・人が非服従運動の実践に適するようになるには、その前に、国家の法律に積極的かつ尊敬をこめてた服従を行っていなければならなかった。たいていの場合、私たちは、法律に違反すると罰せられる恐れから法律に服従している。・・・けれどもこのような服従は、サッティヤーグラハに要請されている積極的自発的な服従ではない。サッティヤーグラハ運動者は社会の諸法律をよく理解し、そして彼自身の自由意志からそれに服従する。それはそうすることが、彼の神聖な義務だと考えているからである。このように一人の人が社会の諸法律に忠実に服従しているときに初めて、彼はどの特定の法律が善で公正であるか、そしてどれが不公正で邪悪であるかについて、判断を下すことができる。そのときになって初めて、はっきりと規定された状況のもとに、ある法律に対して非服従を行う権利が生まれるのである。わたしのあやまちは、わたしがこの必要な限定性を守らなかったところにある。<ガンジー『ガンジー自伝』 中公文庫 p.406-408>
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書籍案内

長崎暢子
『ガンディー』
現代アジアの肖像
1996 岩波書店

ガンディー/蝋山芳郎訳
『ガンディー自伝』
中公文庫リブロ