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アイルランド問題

19世紀、イギリスの支配下にあったアイルランドが自治、独立を求めて運動を行い、イギリス議会で対応する立法が行われた。

 イギリス宗教改革で成立したイングランド国教会アイルランドにも強要されると、アイルランドに多いカトリック教徒の反発が強まった。17世紀にはいり、ジェームズ1世の時代に北アイルランドにプロテスタントが入植するようになって、特に北アイルランドには新旧両派が混在する状態となった。

クロムウェルの征服

 1649年、ピューリタン革命によって権力を握ったクロムウェルは、カトリック勢力を抑えることを名目にしてアイルランド征服を行い、カトリック系住民の土地を奪うなど、実質的な植民地化を強行した。こうしてアイルランドの土地はイギリス人地主の所有となり、アイルランド人は小作人の立場におかれてきた。17世紀後半の王政復古期にはスコットランドの長老派信者が弾圧を逃れてアイルランドに移住して、北アイルランド(アルスター地方)ではプロテスタン住民の方が多数となり、信仰の違いからたびたびカトリック信者と衝突するようになった。

アイルランド併合と融和策

 アメリカの独立、フランス革命などでアイルランドでも独立の気運が高まったことに対し、イギリスのピット首相は、1801年1月1日、一方的にアイルランドを併合し、これによって国号は「大ブリテンおよびアイルランド連合王国」となった。カトリック教徒であった住民の多くは審査法によって公職に就けなかったが、オコンネルらの努力で1828年には審査法が廃止され、さらに1829年にはカトリック教徒解放法で信仰の自由と公職への就任が認められるようになった。これらはアイルランドとの融和を図る目的もあったが、カトリック教徒の公職への進出をプロテスタント側が反発し、その対立はかえって強まってしまった。

ジャガイモ飢饉と独立運動の激化

 産業革命に取り残されたアイルランドの小作人の貧困は1845~48年の大飢饉(ジャガイモ飢饉)でさらに進行し、多くのアイルランド人が移民としてアメリカなどに移住していった。そのような危機の中で、19世紀後半の民族主義(ナショナリズム)の高揚の影響を受けて、土地の獲得と自治の実現を激しく要求する運動が起こった。まず、1848年には青年アイルランド党が民族独立、イギリスとの分離を掲げて武装蜂起したが、鎮圧された。その後も、フィニアンと名乗る秘密組織が独立運動を続け、1867年にイギリス殖民地の白人支配地であるカナダの自治が認められたことに刺激されて、武装蜂起したが鎮圧された。

アイルランドの土地戦争

 1870年代には、アイルランド国民党が議会内で自治獲得の運動を行い、またアイルランド土地同盟が結成されて、小作人の解放を求めて起ち上がった。1870年、グラッドストン自由党内閣は「アイルランド土地法」を制定し、問題の解決をはかったが農民の不満は解消できなかった。1880年にはイギリス人地主と小作人の対立は激化し、アイルランド各地で両者が衝突する「土地戦争」(1880~83年)に発展した。しかし、アイルランドの農民を指導したアイルランド国民党のパーネルらも投獄され、本国の弾圧により、運動は退潮した。

アイルランド自治法案の否決

 1884年の第3次選挙法改正でアイルランド国民党が議席を伸ばすと、グラッドストンは議会内で国民党の支持が必要であったため、アイルランド自治法案を議会に提出しることにした。86年の第1次をはじめとして、3次にわたり提案したが、下院は通過しても、上院(貴族院)で阻まれ、成立しなかった。20世紀に入ってもアイルランド問題は、イギリスにとっての「のどに刺さったトゲ」として引き継がれていく。

Episode 「ボイコット」の語源

 ”仕事をボイコットする”などのように「ボイコット」という語は日本語化しているが、もとはこの時代のイギリス人のある人の姓から来ている。1880年、イギリス人地主の土地の管理人ボイコット大尉が、小作人のアイルランド人を追放しようとしたに対して、小作人は彼との交渉の一切を絶ち、召使いは家を離れ、商人は物を売らないという抵抗を行った。そのためボイコット一家が餓死に瀕して屈服するという事件が起こった。このことから、この法律に触れない抵抗運動は「ボイコット運動」というようになり、全国に広がった。

20世紀のアイルランド問題

20世紀の第1次大戦~第2次大戦後のアイルランド問題の経緯。

第一次世界大戦中の独立運動

 1801年のイギリスのアイルランド併合以来、19世紀のアイルランド問題は、イギリスにとって「のどに刺さった骨」として未解決のまま推移していた。20世紀に入り、1905年にはアイルランドの独立をめざすシン=フェイン党が結成された。1914年にイギリス議会で成立したアイルランド自治法も、第一次世界大戦の勃発によって実施が延期されることなった。延期に反発したシン=フェイン党は1916年の復活祭の日に武装蜂起(イースター蜂起)し、ダブリンで激しい市街戦となったがイギリス軍によって鎮圧された。次いで1918年のアイルランド総選挙でシン=フェイン党が大勝すると、彼らは本国の議会に出席することを拒否し、1919年にダブリンに独自のアイルランド共和国議会を開設して、独立宣言を発した。

英・アイ戦争

 独立宣言を発したアイルランドではマイケル=コリンズが義勇軍を再編し、対イギリス武装闘争を開始し、独立宣言を認めない本国政府とのあいだで「英・アイ戦争」となった。本国政府は復員兵を中心に鎮圧軍(ブラック・アンド・タンズ)を投入して激しい戦闘となった。イースター蜂起と英・アイ戦争は、民主主義擁護を掲げて第一次世界大戦に参加したイギリスの足下で起こった民族闘争であり、イギリス国家の理念を根幹から揺るがす戦争であった。アイルランド側はゲリラ戦でイギリスに抵抗、陰惨な戦闘が、1921年7月ようやく休戦した。

実質独立と北アイルランドの分離

 イギリス(ロイド=ジョージ挙国一致内閣)は同1921年12月にイギリス=アイルランド条約を締結した。ロイド=ジョージの考案とされるこの条約は、アイルランドをプロテスタントの多い北部とカトリックの優勢な南部に分割するものであった。その結果、翌1922年に選挙が行われ、自由国支持派が多数を占めて南部26州はアイルランド自由国として、独自の憲法と議会を持ちながらイギリス帝国を構成する自治領として形式的に独立した。自治領とはカナダ、オーストラリアなど同じでもので、ドミニオンといわれた。北アイルランド(アルスター州)6州はプロテスタントが多く、カトリックによる支配をきらったことと、ベルファーストなどの都市の工業化が進んでいたのでイギリス経済との分離を嫌った資本家層が反対したため、イギリス連合王国に留まり、自治議会をが設けられることとなった。

南部アイルランドの内戦

 この分割は、「ケルトの魔術師」といわれたロイド=ジョージの巧妙な交渉によって成立したが、けして平和をもたらさなかった。北アイルランドではその後もカトリック系住民のプロテスタントとイギリス政府に対する激しい反発が続き、テロ事件が続発することとなる。また南部アイルランドでは、シン=フェイン党は分離独立を認める勢力とあくまで全アイルランドの独立をめざす勢力が対立し、内戦となった。この内戦で、独立運動の指導者のマイケル=コリンズも戦死した。

アイルランド自由国からエールへ

 全島独立を主張していたデ=ヴァレラはシン=フェイン党から分離してアイルランド共和党を結成、イギリス連邦(1931年成立)からの分離を主張して1932年の選挙に勝ち、第二次世界大戦から戦後にかけて同国を指導、1937年には新憲法を制定して国号にゲール語のエールを採用した。

第二次世界大戦後の北アイルランド紛争

 第二次世界大戦後の1949年にはイギリス連邦から離脱しアイルランド共和国となった。一方イギリスに留まった北アイルランドでは多数派のプロテスタントと少数派のカトリックが対立、カトリック勢力はアイルランドとの合併をめざし、1969年にアイルランド共和軍(IRA)を結成し、70~80年代に激しいテロ攻勢を行い今なお北アイルランド紛争は深刻の度合いを深めた。ようやく1989年に労働党のブレア政権が成立して和平の機運が進み、和平が成立したがIRAは武装解除に応じておらず、依然問題はくすぶっている。 
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ノートの参照
第12章2節 ウ.ヴィクトリア時代
第14章1節 イ.イギリス
第15章2節 ウ.西欧諸国の停滞
書籍案内

波多野裕造
『物語アイルランドの歴史』
1994 中公新書