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憲政改革調査委員会/サイモン委員会

1927年、イギリスがインド独立問題の調査のために設けた委員会。サイモン委員会ともいわれる。委員にインド人が含まれていなかったためインド側の反発が強くなった。

 インドの反英闘争が強まる中、1927年11月にイギリスで設置された、インド独立問題の調査にあたる委員会で、委員長サイモン(自由党員)の名前をとってサイモン委員会、あるいは法定委員会とも言われた。1919年のインド統治法は10年目に見直される規定であったので、それに備えての調査であったが、本国でインド独立を認めている労働党が台頭しており、焦った保守党政府が政権交代前にインド独立に枠をはめようとしたものと考えられる。なお、この委員会に労働党からアトリーが参加していた。かれはこれをきっかけにインド問題に関わることとなり、大戦末期にチャーチルに代わって内閣を組織、戦後の課題の一つにインド問題の最終解決を掲げ、1947年のインド独立法でその道筋をつけることになる。

インドの反発

 インドの独立に関する委員会であるにもかかわらず、委員が全員イギリス人で、インド人が含まれていなかったので、インドで反発が強く起こった。国民会議派はサイモン委員会のボイコットを決定、1928年2月にサイモン委員会がボンベイに上陸したが、インドをあげて反対運動が起き、委員会は各地で「サイモン帰れ!」という声に迎えられ、警察官がデモ隊をムチをふるって弾圧し、ラホールでは非暴力デモ行進の先頭に立っていた会議派の指導者ラージパット=ラーイがイギリス人警官の棍棒で殴り殺された。

インド諸勢力の対応

 イギリスの保守党政権は、憲政改革調査委員会にインド人を入れなかった理由を、インド側が宗教的な対立で一本化されていないことを挙げたので、インドの諸政党、諸勢力は協力して自主憲法原案の作成に入った。モティラール=ネルー(ジャワハルラル=ネルーの父)を委員長として全政党が参加する委員会を発足させ28年8月に「ネルー報告」として発表した。それはイギリス帝国内の自治領の地位を要求し、分離選挙制(ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒など宗派別に議員数を配分する選挙制度)などコミュナリズムにつながる制度は廃止するとされた。しかし、少数派のムスリム連盟は分離選挙制度を強く主張しており、その要求を取り下げてはいなかった。また国民会議派内部にも自治(スワラージ)の意味をめぐって、帝国内の自治領に止めるとする穏健派と、完全独立を求める急進派の対立が存在した。このように指導部が分裂する中で、ガンディーは大衆を基盤とした運動を組み立てようと、一見独立とは関係のないような塩税反対を掲げることを提案し、「塩の行進」が始まった。ここから1930年代の第2次非暴力・不服従運動がわき起こった。
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ノートの参照
第15章3節 エ.インドでの民族運動の展開