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アトリー

1945~51年イギリス労働党内閣の首相。ポツダム会談に途中から参加。福祉国家建設などを進める。

 イギリス労働党の指導者。第二次世界大戦後のイギリスの重要な指導者の一人。労働党党首として1940年のチャーチル戦時内閣に副首相として入閣した。1945年5月、ドイツ降伏に伴い連立を解消、同年7月の総選挙でチャーチルの保守党に圧勝して首相となり、当時開催中であったポツダム会談にチャーチルに代わり途中から参加した。アトリー内閣は初の労働党単独内閣として、産業国有化や社会保障制度の充実などに取り組み、イギリス「福祉国家」実現させた。1951年に選挙に敗れ、チャーチル(第2次)内閣に交替した。  

アトリー内閣

1945~51年のイギリスの労働党単独の内閣。重要産業国有化、社会保障制度の充実などを進める。

 ドイツ敗北後のイギリスで、1945年7月5日に行われた総選挙は、戦争を勝利に導いたチャーチルの名声に依存した保守党に対し、戦後再建にむけて大規模な社会改造を掲げたアトリーの率いる労働党が挑戦し、労働党393議席、保守党213議席(自由党はわずか12議席)という勝利を占めた。戦争に飽いた国民が社会保障の充実などの労働党の政策に大きな期待をかけた結果といえる。
 アトリー内閣はイギリス最初の労働党単独の内閣であった。国民の期待に応えて、労働党の年来の主張であった重要産業国有化社会保障制度の充実という政策を実施し、「福祉国家」を実現した。マルクス主義的な暴力革命によらずに社会改良を行おうという社会民主主義の思想、また経済理論としては財政支出によって完全雇用をめざすというケインズの思想が背景にあった。
 産業革命期からの施設の老朽化と戦争による設備の破壊、および終戦によるアメリカの援助の打ち切りなどによって生産力が落ち込んでいる中でのアトリー内閣の「福祉国家」は社会保障制度を通じて所得を再分配する効果をもたらし、社会の平等感を回復した。しかし冷戦が深刻化し1950年に朝鮮戦争が勃発、再軍備のために社会保障費を減額せざるを得なくなると国民の支持を失い、51年10月の総選挙で保守党(チャーチル党首)に敗れて総辞職した。
 アトリー内閣の時期に、イギリスはNATOの創設を主導して西側陣営の中心となったが、軍事的にはアメリカへの従属を強めた。またアトリーは課題であった植民地問題の解決にあたり、インド・パキスタンの独立ビルマなどの独立を承認し、委任統治期間の終了に伴いパレスティナから撤退した。
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第16章1節 ア.戦後の国際政治・経済秩序