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南京虐殺事件

1937年12月、日中戦争で南京を占領した日本軍による市民を含む殺戮行為があり国際的な非難を浴びた。

 日中戦争の中で、1937年12月、南京国民政府首都の南京に対する総攻撃の際に、日本軍によって組織的に展開された、捕虜や非戦闘員に対する殺害、さらに略奪、強姦などの不法行為が行われたこと。国内では明らかにされなかったが、当初から国際的には大きな批判を受け、戦後の東京裁判などで軍指導者が処刑された。
 国民政府の首都南京を攻略することによって、戦争を終わらせることができると考えた軍部は、上海戦で消耗し、十分な補給体制のないまま、一気に南京攻略に突入した。上海派遣軍と第一〇軍からなる中支那方面軍に編制された総勢20万の日本軍が、上海から南京に向かって攻撃を開始、南京に至る過程でも日本軍の暴行略奪は激しく、12月6日からは南京の城壁に直接攻撃を開始。翌7日には蔣介石夫妻はアメリカ人パイロットの操縦する飛行機で南京を脱出、その他の南京政府の要人、ドイツ人軍事顧問団(当時ヒトラーは国民政府軍に武器と軍事技術援助を与えていた)もひそかに脱出し、南京防衛にあたったのは唐生智司令官の下でかき集められた補充兵や新兵だった。
 国民政府と蔣介石はすでに11月20日に重慶遷都を決定していた。12月10日から12日にかけて激しい攻防戦が展開された。東京で早くも11日は「南京陥落」が伝えられ大々的な祝賀パレードなどが行われたが、実はそれは誤報で、まだ戦闘はつづいていた。12日夜は最も激しい戦闘が繰り広げられ、海軍機も空爆を行った。その際、誤ってアメリカ軍艦パネー号を撃沈するという事件も起こった(後にアメリカ軍に陳謝、賠償し決着した)。南京防衛軍は撤退を命じたがその指揮命令も混乱し、多数の兵士が武器を捨てて市民と共に逃げまどう状況となり、13日早朝ついに陥落した。その後は敗残兵掃討が行われ、一般市民も多数犠牲となった。敗残兵が市民に紛れ込んで、いわゆる「便衣隊」となっていることを恐れた日本軍はちょっとでも怪しいそぶりであれば捕らえて殺害した。12月17日松井司令官以下幕僚の入城式が挙行されたが、日本軍の略奪、強姦などの暴行は翌年1月までつづいた。

南京虐殺事件と東京裁判

 日本の国民は中国の首都が陥落したので戦争も終わるだろうと喜びに包まれた。当初、「南京を一撃すれば中国は降伏する」という「一撃論」で南京攻略を行ったが、中国政府は武漢に退き、なおも抵抗を続けたので、日本軍の見通しは完全にはずれてしまった。また残虐行為の現実は国内に知らされることはなかったが、翌38年1月になると、南京での日本軍の蛮行は、「南京アトロシティー(虐殺)」として世界各地で報道され、国際的な批判が巻き起こった。戦後の東京裁判のA級裁判で松井石根元大将が南京虐殺事件の責任者として死刑とされ、また現地の南京で開かれたBC級戦争犯罪裁判では第6師団長谷寿夫元中将と、「捕虜三百人切り」などを行った軍人三名が有罪となって処刑された。

虐殺の犠牲者数

 戦時における虐殺は無抵抗の捕虜や非戦闘員を殺害することで、国際法上許されない行為である。東京裁判では約20万以上の虐殺が認定され、中国では30万から40万という数字が挙げられている。このような「大虐殺」の数字には根拠がないとして否定する論者もいるが、日本側の研究でも30万に近いと想定するのが正しいようである。なおこの事件を「南京事件」という場合もあるが、一般に南京事件は別の事件(1927年)を指すので注意すること。<藤原彰『南京大虐殺』1986 岩波ブックレット、笠原十九司『南京事件』1997 岩波新書などによる>
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ノートの参照
第15章4節 ウ.満州事変・日中戦争と中国の抵抗