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南京

金陵、建業、建康ともいわれた江南の大都市。明の最初の首都となる。

 長江(揚子江)の河口近く、江蘇省の平野部の中心に位置する重要な都市。中国史上、何度か都とされ、その名も変わった。戦国時代の楚国に金陵邑に始まるとされ、金陵は今でも南京の古名および雅名とされている。三国時代の呉が都として建業といわれ、南北朝時代には東晋が都として建康と改名され、宋→斉→梁→陳の南朝の都となり、六朝文化が栄えた。隋は陳を滅ぼすと建康の都城を破壊、地名も江寧と改めた。唐以降は都ではなくなり、隣の揚州(江都)に繁栄を奪われたが、五代十国でこの地を都とする王朝(呉、南唐)が現れ、宋から元にかけても金陵府・江寧府・建康府と改称されたが、江南地方の中心として繁栄をとりもどした。元末の紅巾の乱のさなか、朱元璋は1356年にこの地を拠点として自立、応天府と名付けた。1368年に即位してを建国、この地に大都城を築いて京師と称し都とした。1421年に永楽帝北京に遷都してからはその副都となり、それ以降はこの地は南京と言われるようになる。以上、金陵→建業→建康→江寧→南京という地名の変化に注意しておこう。なお、朱元璋が築いた明の都城は現在は荒廃し、見ることはできない。
 明代から南京付近の農村では綿花の栽培が盛んになり、南京は綿織物業が盛んになった。南京産の綿織物は南京木綿と言われ、明代から清代にかけて、中国の主要な輸出品の一つとなった。

近現代の南京

 明代、清代を通して南京は江南地方の中央都市の一つとして重要であったが、1840年に起こったアヘン戦争では、この地が講和条約の締結地とされ、1842年に南京条約が締結された。1853年から12年間は太平天国の都とされ、天京と言われた。辛亥革命が起きると1912年1月、中華民国が樹立され南京に都が置かれた。国共合作が成立し、蒋介石軍の北伐が迫った1927年3月には、南京でアメリカ・イギリス・フランスの領事館などが民衆に襲撃される南京事件がおこった。アメリカとイギリスは報復として南京を砲撃、中国側に多数の死傷者が出た。蒋介石はそれを共産党の指導によるものとして、上海クーデターによって共産党を排除し、権力を握って南京国民政府を樹立した。日中戦争が勃発すると、1937年に日本軍は中華民国首都の南京を攻撃、南京虐殺事件を起こし国際的な非難を浴びた。
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ノートの参照
第7章1節 ア.14世紀の東アジア