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重慶

日中戦争中の1938年、中国国民政府蔣介石政権が遷都した。日本軍は激しい空爆を行った。

 重慶は中国の長江上流、四川省の最大の都市。1938年11月から日中戦争の最後まで国民政府(蔣介石政権)の首都とされ、抗日戦争の拠点となった。国民政府は武漢を戦時首都としていたが、1938年10月に武漢が陥落したので、重慶に移転した。以後、蔣介石は重慶を拠点に援蒋ルートによるアメリカ・イギリスの援助を受けて抗日戦を継続した。日本軍は数度にわたって激しい重慶爆撃を行ったが、陸上部隊で攻撃することはできなかった。

国民政府の首都重慶移転

 日本軍の南京総攻撃を前にした1938年11月20日、国民政府の蔣介石主席は首都の重慶遷都を宣布した。上海戦で約25万の兵力を失い、南京で徹底抗戦は不可能と判断したためであった。しかし孫文の墳墓(中山陵)があり中華民国の首都である南京を無抵抗で南京をあけ渡すことは、国民に重大な影響を及ぼし、自らの権威の失墜にもつながると考えた蔣介石は、首都を移転した上で日本軍に抵抗することをきめ、唐生智を防衛司令官に任命した。南京で抵抗することによって世界の関心を集め有利な講和条件を引き出そうとしたという。<笠原十九司『南京事件』1997 岩波新書 p.109>

重慶爆撃

1938年末から行われた、日本軍による蔣介石政権の重慶に対する戦略爆撃。

 日本軍は国民政府の蔣介石が移った重慶に対し、1938年末からたびたび戦略的な爆撃を行った。その中で、特に激しい空爆が行われたのが、1941年5月から8月にかけて(つまり太平洋戦争の開始前に)行われた一〇一号作戦であった。爆撃目標は「戦略施設」に限られ、第三国施設などは除外されていたが、重慶は霧が深く、大体の見当で投弾され、実際は無差別爆撃となった。8月19日の爆撃には完成したばかりの零式艦上戦闘機(いわゆるゼロ戦)が初めて護衛についた。この爆撃によって多数の重慶市民が殺害され、蔣介石の住居もねらい撃ちしたが、難を逃れた。<『図説日中戦争』森山康平著、河出書房新社p.145>
 日本軍による重慶爆撃では犠牲者は1万名を超えた(中国側資料)。この爆撃は、ドイツ軍のゲルニカ爆撃(37年4月)とともに敵の抗戦意欲の低減をねらい、軍事目標だけでなく市街地も無差別に爆撃するという戦略爆撃の始まりを示すものであった。日本軍の錦州爆撃、漢口爆撃、ドイツ軍のロンドン爆撃、アメリカ軍(連合軍)のドレスデン爆撃東京大空襲と日本の都市に対する空襲、そして広島・長崎への原爆投下が戦略爆撃であった。

Episode 重慶爆撃の記憶

 2004年7月に開催されたサッカーのアジアカップ国際試合の重慶会場で、日本チームに対して中国人観客から激しいブーイングがあり、勝って引き揚げる日本チームのバスが襲撃されるという事件が起こった。日本人がほとんど忘れていた(あるいは知らなかった)日本軍の重慶爆撃にたいする中国人の感情がなおも厳しいことに気付かされることとなった。日本のマスコミは中国政府が重慶を反日教育の拠点にしているためであると非難する論調が多かったが、まず事実を直視することが大切であろう。
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ノートの参照
第15章4節 ウ.満州事変・日中戦争と中国の抵抗