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日中戦争

1937年、盧溝橋事件を機に勃発した日本と中国の全面的な戦争。1941年12月には太平洋戦争に拡大し、第二次世界大戦の一部となった。1945年8月15日に日本軍の全面的は敗北で終わった。中国では共産党が抗日戦争を勝利に導いたことをその権力の正当性としている。

 1937年7月7日の盧溝橋事件に始まり、1945年8月15日、日本の敗北によって終わった日本と中国の戦争。日本(近衛文麿内閣)は宣戦布告をしなかったので、支那事変(当初は北支事変)と命名され(一般には日華事変とも言われた)、1941年12月からは「大東亜戦争」に組み入れられた。中国では中日戦争、抗日戦争という。
 日本はそれより先、1931年9月の満州事変で中国への侵略を開始しており、事実上の戦争は始まっていた。ただ、満州事変及び満州国建国に対して、当時中国は蔣介石政権と軍閥の抗争が続き、共産党勢力との内戦も深刻であったため、日本に対する抗戦らしい抗戦は出来ず、また1933年に塘沽停戦協定を締結現地での停戦が成立しているので、一般にはの段階は日中戦争に入れない。日本は日中戦争突入と共に、国家総動員法(38年)など国民生活を犠牲にした戦時体制がとられることとなる。

戦争の開始

 満州事変と満州国建国後も関東軍による内蒙古工作、支那駐屯軍による華北分離工作という中国内部への日本軍の侵略が続き、その動きはついに1937年7月の盧溝橋事件を機に全面的な日中戦争突入した。満州事変での経験から、日本軍は中国側の抵抗を過小に評価し、分裂状態にある中国に一気に軍事的圧力をかけることによって、降伏させられると考えていた。日本軍は、蔣介石政府は腐敗して国民から離反しているから弱体であろうし、共産党勢力も農民一揆程度の力量しかないと判断していた。陸軍大臣杉山大将は天皇に対し、戦争は短期間で終わると報告したが、実際には戦争は長期化し、日本敗戦の45年までつづくこととなる。

中国の対応

 前年の1936年12月には西安事件で国民党と共産党の提携の端緒が生まれ、日中戦争勃発を受けて1937年9月に第2次国共合作が成立した。国民党軍、共産党軍は内戦を停止して抗日民族統一戦線を結成し、一致して日本軍の侵略に対して抵抗することとなった。

戦争の経過

 日本軍は1937年11月の上海占領に続き、国民政府の首都南京の攻略に着手、12月に占領した。その際、大量の捕虜、民間人を虐殺する南京虐殺事件を起こした。翌1938年1月、近衛内閣は「国民政府を相手にせず」と声明し、蒋介石政権との講和交渉を打ち切った。
 戦争は長期化し、戦線拡大を強いられた日本軍は、38年3月には徐州作戦を開始、それに対して国民党軍は退路戦術をとり、黄河を決壊させて洪水を起こして日本軍の進撃を阻止しようとした。洪水によって多数の農民が命と土地を失った。さらに戦線を華南に転じ、同年10月には長江中流の武漢三鎮を攻略した。この武漢攻略戦で、日本軍は毒ガスを使用した。
 蔣介石の国民政府は長江上流の重慶に退き、ビルマ方面などから米英などの支援(援蒋ルート)を受け、共産党は八路軍など各地でゲリラ戦をつづけて抵抗した。日本軍は38年末に重慶爆撃を行うと共に、援蒋ルートの遮断を狙ってさらに南下し、香港など主要都市を占領したが、広大な大陸で点と線の支配にとどまり、戦争は泥沼化した。
 1939年にはモンゴル草原で関東軍はソ連軍と衝突(ノモンハン事件)して敗れ、北進をあきらめ、南進策をとって中国戦線の打開をはかることとなった。1940年3月には、親日政権として汪兆銘を擁立し、南京国民政府を樹立させて中国分断を図った。

太平洋戦争への延焼

 1940年5月、ヨーロッパで、ナチスドイツ軍がフランスを占領したことを受け、日本軍は援蒋ルートを遮断する目的で、1940年のフランス領インドシナ進駐(北部仏印進駐)を強行した。ついで41年の南部仏印進駐を実行したが、この動きは一気に米英との対立を深め、41年12月の太平洋戦争開戦となる。こうして日中戦争は太平洋方面に拡大されると共に、アメリカを戦争に巻き込み、第二次世界大戦に転換することとなった。
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ノートの参照
第15章4節 ウ.満州事変・日中戦争と中国の抵抗
書籍案内

古屋哲夫
『日中戦争』
1985 岩波新書