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ゲルニカ

1937年、スペイン戦争で、フランコ反乱軍を支援したドイツ空軍に爆撃された村。第2次世界大戦の無差別空爆の予行演習となった。

 ゲルニカはスペインのバスク地方、ビルバオの東、約20キロにあるビスカイヤ州の古都。1937年4月26日、前年から続くスペイン戦争が膠着状態となっていたため、反乱軍のフランコ将軍はスペイン北部の工業地帯であるバスク地方への進行によって戦局を転換させることをねらった。
 ドイツ空軍に爆撃を要請、ドイツ空軍「コンドル軍団」にイタリア軍機が加わり実行された。攻撃機にはドイツの空軍相ゲーリングが意図した新鋭機のハインケル爆撃機、メッサーシュミット護衛戦闘機が実験的に投入された。この爆撃で市街地の25%が破壊され、70%が炎上した。死者の数はヒュー=トマスによれば200以上。爆撃の意図は、北上するバスクの政府軍の退路を断つこととされたが、道路や橋は残され、市街が爆撃された。<荒井信一『ゲルニカ物語』岩波新書 P.60、78-97>

ドイツにとってのゲルニカ

(引用)第一次世界大戦に敗北し、空軍の保有を禁止されたドイツは1935年に再軍備を宣言し、空軍の再建を始めた。スペインの内戦はこの空白を埋め、さらに新たに開発した軍用機や爆弾などの効果、運用方法などを試す絶好の実験場であった。あるドイツの将校は、それを「二年間の実戦経験は平時の訓練の10年分以上に役立った」と要約している。実験としてのゲルニカ爆撃は爆撃の被害を受けた一般住民の側からいえば、自分たちが集団として人体実験の対象になったということになる。自民族(人種)以外を劣等民族視するナチズムの人種主義がその背景にあった。<荒井信一『空爆の歴史』2008 岩波新書 p.48>

無差別戦略爆撃の始まり

 1903年の飛行機の発明以来、第一次世界大戦前後から空爆が戦争の中で重要な意味を持つようになった。空爆がそれまでの戦争の概念を変え、一般人をもまきこむ非人道的な武器となる事は明白だったので、毒ガスとともに戦争への「利用」を禁止する国際条約なども作られたが、効果はなかった。空爆を単に戦術的に使うのではなく、戦略的に敵を降伏に追い込むためには有効で、かつ、「被害をより少なくすることのできる」のだから、積極的に使用しようという思想が現れたためだ。
 ゲルニカ空爆は前線の敵の基地を爆撃する戦術的爆撃ではなく、後方の市街地を無差別に爆撃して一般市民に恐怖心を与えることを目的に行われた、戦略爆撃であった。このような無差別な戦略爆撃が本格的に行われた最初がゲルニカ空爆であった。そしてそれは第二次世界大戦が始まると枢軸側も連合国も盛んに行い、戦争の悲惨さと被害の拡大をもたらした。ドイツによるロンドン空爆、イギリス・アメリカ軍によるドレスデン空爆、日本軍による重慶爆撃、アメリカ軍による東京爆撃などがその例であり、その延長戦の究極にあるのが広島・長崎であった。

平和のための世界首都

 1997年、ドイツのロマン=ヘルツォーク大統領はゲルニカの被害者に手紙を書き、「すべてのドイツ市民の名前で和解と友好の手」をさし出した。翌年、議会はドイツの軍事基地から旧コンドル軍団員(ゲルニカ空爆に参加した舞台)の名前を削除する立法を行った。2007年には広島、ドレスデン、ワルシャワ、オシフィエンチム(アウシュヴィッツ)などからの参会者を含む国際的な平和集会がゲルニカで開かれ、ゲルニカが「平和のための世界首都」となったことが宣言された。<荒井信一・同上 p.48-49>
ピカソのゲルニカ
ピカソのゲルニカ

Episode ピカソの「ゲルニカ」

 4月26日のゲルニカ爆撃を29日にロンドンのタイムス特派員スティヤ記者の記事がフランス共産党機関誌ユマニテに掲載されることによって知ったピカソは5月1日からモチーフのスケッチに入り、6月4日頃完成させた。7月12日、パリ博覧会スペイン館が開館し、その正面に展示され、多くの人の目に触れた。
 ピカソはこれをスペイン共和国政府に寄贈、その後、各地で展示された後、39年5月アメリカのニューヨーク近代美術館に移り、ピカソ自身の意志で、スペインに共和制が戻るまでスペインには帰らない、とされた。フランコの死後、民主化したスペイン政府がアメリカと交渉、81年10月マドリードのプラド美術館に入った。<荒井信一『ゲルニカ物語』岩波新書 P.60、78-97>
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ノートの参照
第15章4節 カ.ファシズム諸国の攻勢と枢軸の形成
書籍案内
ゲルニカ物語
荒井信一
『ゲルニカ物語
―ピカソと現代史』
1991 岩波新書

荒井信一
『空爆の歴史』
2008 岩波新書