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航空機/飛行機

1903年、ライト兄弟が実用化し、第一次世界大戦で新兵器として使用された。20世紀後半、急速に発達する。

 飛行機はアメリカのライト兄弟が複葉グライダーを1902年に試作し、1903年にそれにエンジンとプロペラを備え付けて飛行に成功した。軍用機は第一次世界大戦の開戦の頃は両陣営それぞれの空軍が百数十機しか保有していなかったが、戦争中に急速に増加し、3万機までになった。また戦闘機だけでなく、攻撃機、爆撃機、偵察機といった機種が生まれた。さらに飛行船も登場し、偵察・爆撃に使用された。特にドイツ海軍のツェッペリン号はロンドンの夜間爆撃を行い恐れられた。その他、第一次世界大戦で出現した新兵器には、潜水艦がある。また火砲も急速に発達し、射程が100㎞を越す長距離砲も出現した。

Episode 空のエース、レッドバロン 戦闘機の出現

 飛行機は当初、偵察や命令の伝達(伝令)、あるいは砲兵隊の着弾地の計測に協力するといった補助的な任務しかなかった。銃を備え付けて敵機を撃つことも試みられたが、銃弾がプロペラに当たってしまうという問題があったので、銃座をプロペラの回転面から離さなければならず、効果が薄かった。その問題を解決したのが中立国オランダのフォッカーで、彼はエンジンの回転軸と機銃をカムシャフトでつなぎ、プロペラが機銃の真正面に来た瞬間に撃鉄が薬莢の雷管をたたいて発射する仕組みを考えた。こうしてプロペラの回転と銃弾の発射を同調させることに成功した。このフォッカー型戦闘機は1915年夏からドイツ軍が前線で使うようになり、本格的戦闘機の出現は連合軍の空軍を恐怖に陥れたという。その後戦闘機は急速に改良され、パイロット技術も上がって、第一次世界大戦では敵機を何機落とすかという競争が行われ、レッド=バロンと呼ばれたドイツのリヒトホーフェン騎兵大尉(一人で80機を落とした)など、何人もの空のエースが現れた。

空爆の開始

 飛行機を用いての爆撃、つまり空爆が始まったのは、1911~12年のイタリア=トルコ戦争であった。イタリア軍はオスマン帝国領のトリポリ・キレナイカの植民地化を目指して攻撃、1911年9月23日の開戦とともに飛行機9機、飛行船2機を派遣、10月26日に飛行機から手榴弾を投下、、以後総計330発の爆弾を投下した。これが空爆の最初であり、アラブ側に驚異的な心理的効果を与えたと報告されている。
 その後、バルカン戦争(1912、1913年)ではブルガリアが22ポンド爆弾を開発し始めて都市爆撃を行った。飛行機の軍事使用が効果をあげたことに各国が注目し、フランスとスペインは北アフリカの植民地で1913年から使用するようになった。日本軍は、第一次世界大戦に参戦し、ドイツの青島要塞攻撃の際に初めて飛行機を空爆、偵察に使用した。

戦略爆撃の思想

 第一次世界大戦後、敵の都市など人口密集地帯を無差別に空爆することによって恐怖心を与え、降伏に追い込むための戦略的な爆撃を行うという考え方が強くなった。その「実験」の意味があったのが、イタリアのエチオピア併合の戦争と、ドイツのスペイン戦争でのゲルニカ空爆であった。ここから本格化した無差別戦略爆撃の思想は、第二次世界大戦でのロンドン、ドレスデン、重慶、東京などで実行され、その究極のところに広島・長崎があった。<荒井信一『空爆の歴史』2008 岩波新書>
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第15章1節 ア.第一次世界大戦の勃発
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荒井信一
『空爆の歴史』
2008 岩波新書