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ポル=ポト/ポル=ポト政権

1976年から1979年までカンボジアを支配した、ポル=ポトを指導者とする急進的な共産主義政権。ポル=ポト派は赤色クメール(クメール=ルージュ)と同義である。国名は「民主カンプチア」とした。

 カンボジアにおいて、ポル=ポトを指導者とする急進的な共産主義・民族主義グループである赤色クメール(クメール=ルージュ)は、シハヌーク派と協力して、1975年4月に親米右派のロン=ノル政権を追いだし、カンボジアの実権を握り、国号を「民主カンプチア」とした。国家元首としてはシハヌークを戴いていたが、翌年には実権を奪い、シハヌークを軟禁状態において、ポル=ポトの独裁権力のもと、急進的な共産社会化が強行された。 → カンボジア内戦

ポル=ポトとは

ポル=ポト Pol Pot はゲリラ名で、本名はサロト=サルという。その生涯は謎に包まれている。1925年、フランス保護国時代のカンボジア中部、コンポントム州の貧しい農家に生まれ、建築専門学校で学んだ。45年、日本軍が去った後のカンボジアでフランスからの独立運動が激しくなり、サロト=サルも政治活動に参加した。しかしシハヌーク国王はフランスとの妥協の道を探り、独立派を弾圧した。失望した学生指導者たちはカンボジア政府からの奨学金でパリに留学する道を選んだ。
フランス留学 サロト=サルも49年にフランスに留学した。そのパリでカンボジア学生のマルクス主義研究会に参加し、イエン=サリやキュー=サンファン、ソン=センなど後のポル=ポト政権の中枢となるグループが結成された。後にポル=ポトの最初の妻となるキュー=ポナリもいた。ポル=ポトはフランス共産党に入党、筋金入りの共産主義者となって53年、27歳でプノンペンに戻ってきた。
反ベトナム感情 ポル=ポトは帰国後、カンボジア人民革命党に党籍を変更した。この党はベトナムのホー=チ=ミンが作ったインドシナ共産党を母体として51年に結成されたものでベトナム人が指導していた。54年、インドシナ戦争が終わり、ジュネーヴ協定が締結され、カンボジアの完全独立も認められたが、ポル=ポトらは王政に反対して革命を目指した。しかし、ベトナム共産党はカンボジアから撤退し、共産勢力への支援を停止した。カンボジア人民革命党員も多くがベトナム人に変装してハノイに渡り、ポル=ポトらだけが残留した。ポル=ポトはジャングルを出てプノンペンの私立学校の教師となった(後のポル=ポトは幹部には教員経験者が多い)。シハヌークは55年に国王位を返上して政治組織「人民社会主義共同体」(サンクム)を結成、総選挙で圧勝した。しかし一方で共産勢力に対しては厳しい弾圧を継続、ポル=ポトらは教師やジャーナリストの仕事をしながら活動を続けた。
カンボジア共産党   ポル=ポトはこのころからソ連、中国、ベトナムなどに依存せず、独力で革命を達成しようと考えるようになったようだ。1960年、ポル=ポトらは密かにプノンペンでカンボジア共産党を結成した。これは共産主義運動でもベトナムの指導から離れてカンボジア人を主体とした運動とすることを表明したものであった。ポル=ポトは結成時には党内序列第三位であったが、63年に党書記となり実権を握ると同時に、ジャングルにもぐり、表面から姿を消した。このポル=ポトの主導するカンボジア共産党を、ポル=ポト派、または赤色クメール(クメール=ルージュ。シハヌークが使った蔑称)と言っている。
シハヌーク政権との闘い  1965年からベトナム戦争が激化した。このころポル=ポトはシハヌーク政権打倒を目指してゲリラ活動を続けながら、後で判明したことだが、中国に行き、毛沢東とその文化大革命にふれ、強い影響を受けたらしい。一方、北ベトナムも訪れ、共闘を申し入れたが、ホー=チ=ミン・ルートで南ベトナムを支援する北ベトナムはシハヌークとの関係を悪化させることはできないとして、ポル=ポト支援を拒否した。ポル=ポト派は68年から農村に基盤を築き、反政府の武装蜂起を開始した。
ロン=ノル政権との闘い  反米姿勢を強めながら農民蜂起を弾圧するシハヌークは次第に孤立し、1970年、親米右派のロン=ノルのクーデターによって北京に追いやられた。北京からのロン=ノル親米政権打倒の呼びかけに応じて、ポル=ポトはシハヌークとの闘いを棚上げして共闘に入り、ベトナム・中国からの武器支援も受けてロン=ノル政府軍と激しい戦争と展開した。この間、ポル=ポト派は農村で解放区を作り、政府の重税から農民を解放し、また規律ある行動は農民の強い支持を受けるようになっていった。
ベトナムとの関係悪化  1973年、ベトナム戦争のパリ和平協定がカンボジア抜きで調印され、アメリカ軍はベトナムから撤退、北爆も停止された。同時に協定にもとづき、カンボジア領内にいた北ベトナム軍も大半が撤退した。それをまっていたようにアメリカは(ロン=ノル政権を支援するため)カンボジアの「解放区」への空爆を再開した。このアメリカのカンボジア空爆は73年2月~3月、25万トンの爆弾が投下され、カンボジア農村に莫大な被害を与えた。ロン=ロル政府軍とアメリカ軍の空爆に独力で耐えたロン=ノル派は組織の規律を高め、結束を強め、またベトナムに対する憎しみを持つとともに、農村部を基盤とした政権樹立を独力で樹立する意図を強めていった。

ポル=ポト政権樹立

 1975年4月17日、ポル=ポト派はついに首都プノンペンを制圧し、ロン=ノル政権を倒した。これは4月30日のサイゴン陥落に先立っており、ポル=ポト派はベトナムより先に革命を達成したことを誇った。ポル=ポト派は実権を握ったが、国家元首には国民に一定の人気のあるシハヌークをかつぎ、ポル=ポトは首相となった。しかし、シハヌークにはまもなく自宅軟禁状態にされ、ポル=ポト派の独裁政治が開始される。国号は翌76年、民主カンプチアとされた。
 ポル=ポトは民主カンプチアの首相となったが、国民の前には姿を現さず、対内的にはキュー=サンファン、対外的にはイエン=サリが表面で活動した。ポル=ポト自身は国内外のメディアに顔を出すことを避けたため、その実像はほとんど伝わらなかった。

ポル=ポト政権の人権抑圧

 1975年4月17日のポル=ポト派による解放をプノンペン市民は大いに歓迎した。しかし、ポル=ポト派が翌日出した命令は、すべての市民に対する市街退去命令であった。
 ポル=ポト政権の政策は、農業主体の共同社会を建設し、通貨を廃止、学校教育の否定などの極端な原始共産制の実現を強行しようとするもので、反対派に対する弾圧など強圧的支配をとり続け、多数の犠牲者が出た。この極端な政策が共産社会建設の名の下に実行されたが、旧勢力や帝国主義勢力のスパイから防衛するという口実で、批判や抵抗を暴力的な排除を正当化した。「正しい」のはすべて「組織」(カンボジア語で「オンカー」)が決定したことであって、個人はすべてそれに従わなければならない、とされ、人権と自由は否定され、共産主義の理想からは遠く離れたものとなっていった。

ポル=ポト政権の虐殺

 特にロン=ノル政権やシハヌーク派の官僚、教員やマスコミ関係者など知識人がまず標的にされたが、彼らに留まらず、プノンペンなどの都市住民の多数が農村に送られ、集団農場での労働に従事させられた。また移住に抵抗したものは強制収容所に送られ、社会的に不用なものとして次々と殺害された。ポル=ポト時代の虐殺の犠牲者数は正確な数字は判らないが、ある推計では3年9ヶ月で100万~170万という犠牲者が出たと言われている。
 少数民族もその伝統的社会の維持は否定されて共同農場にかり出され、抵抗して殺害されることが多かった。かつてのチャンパー王国の末裔チャム人もこの時期に人口が半減したと言われる。また華僑は都市で商業に従事していたため、ポル=ポト派の憎悪の対象とされ、やはり人口が半減、またベトナム系住民の多くも犠牲になった。
虐殺のための収容所
(引用)そうした“拷問センター”の一つがプノンペンのトゥルスレン刑務所だった。高校の校舎を改造したこの刑務所には、記録が残っている二年八ヶ月間だけで約二万人が投獄され、電気ショック、ムチ打ち、水責め、宙づり、生づめはがしなどの拷問を受けた。女性の場合は全裸でベッドに縛り付けたうえ、真っ赤に焼いたペンチで乳首をつまんだり、毒サソリを体にはわせるというった性的な拷問も加えられた。<冨山泰『カンボジア戦記』1992 中公新書 p.35>
 これらのことは当時は外部に報道されること無く、世界に知られることはなかったが、ベトナム軍が侵攻し79年にポル=ポト政権が崩壊してから、その実態が知られるようになった。トゥルスレン刑務所跡も公開され、たくさんの犠牲者の写真、そしてなぜか看守たち(その中には少年看守も多かった)の写真が展示されているという。また映画『キリングフィールド』はその状況を描き、世界に衝撃を与えた作品である。

ポル=ポト政権の外交

 ポル=ポト政権は資本主義自由経済を否定したので、外国との貿易には不熱心であり、政治的にも経済的にも独立独歩の姿勢を崩さなかった。外交では親中国の立場をとり、中国もポル=ポト政権を公認した。また日本などの諸国も、ロン=ノル軍事政権を倒して成立した民主的な政権ととらえて、またソ連の影響力の強いベトナムに対する牽制策もあって、当初はポル=ポト政権を積極的に認め、外交関係を結んでいった。

ベトナム軍の侵攻

 しかし、隣接するベトナム、及びそれを支援するソ連との関係は悪化していった。カンボジアにはメコンデルタ地帯をかつてベトナムに奪われたという思いがあり、またベトナム戦争中の協力に対してその後のベトナムが依然としてカンボジアに影響力を残そうとしていることに不満を抱いていた。
 1977年、ベトナムのタイニン省の領有を主張するカンボジアは東部国境軍を越境させ、両国の国境紛争は深刻化した。しかしポル=ポト政権のこの強硬策はカンボジア軍内部にも動揺をもたらし、ポル=ポト政府軍の幹部であったヘン=サムリンやフン=センはカンボジアから脱出してベトナムに亡命した。
 1978年末、カンボジア軍が南部国境で国境を侵犯したことを理由にベトナム軍がカンボジア侵攻、国境紛争は一気に両国の戦争に発展した。強権的な内政で民衆の支持を失っていたポル=ポト派カンボジア軍は押されて後退し、79年1月7日に首都プノンペンはベトナム軍に制圧され、ポル=ポト政権は倒れ、ポル=ポトは再びジャングルに身を隠して抵抗を続けることとなった。 → カンボジア内戦

ヘン=サムリン政権下でのポル=ポト派

 1979年初頭、ベトナム軍に支援されたヘン=サムリン政権が成立すると、中国はただちにベトナムに対する武力攻撃に踏み切り、中越戦争となった。幽閉されていたプノンペンから脱出したシハヌークは、北京から共産勢力のポル=ポト派と共和派のソン=サンに反ベトナム・反ヘン=サムリンでの共闘を呼びかけた。1982年にはシアヌーク派、ポル=ポト派、ソン=サン派の三派連合政府が樹立され、内戦はさらに続いたが、この三派はもともと水と油であり、実体はなかった。しかし、ヘン=サムリン政権がベトナムとソ連に支援されていたため、三派連合政府は中国とアメリカ、およびASEAN諸国が支援するという複雑な図式が出来上がった。

和平機運とポル=ポト派

 カンボジア内戦の第二局面は一進一退を続けたが、80年代後半に転機が訪れた。1986年、ベトナムがソ連のゴルバチョフのペレストロイカに触発されて、経済改革をめざすドイモイ路線に転換した。それはベトナムにとって負担になっていたカンボジアのヘン=サムリン政権への軍事的・経済的支援を打ち切るという方針転換に結びつく。またシハヌークは三派連合政府でのポル=ポト派との体質の違いに嫌気がさし、ヘン=サムリン政権に接近するようになった。
 こうして紆余曲折が続き、ASEAN諸国の仲介などがあってベトナム・ヘン=サムリン政権とシアヌーク派、ソン=サン派などの接触が何度か中断しながらも続けられ、次第にポル=ポト派は孤立していった。1989年、ベトナムは、カンボジアからの軍撤退を表明、それをうけて同年7月からパリでカンボジア和平に関する国際会議が始まった。<ここまで、冨山泰『カンボジア戦記』1992 中公新書 などによる>

カンボジア和平協定の成立

 1989年の東西冷戦の終結は、カンボジア和平に決定的な影響を与え、1991年10月、パリでカンボジア和平協定が調印された。和平交渉では、ポル=ポト派の扱いが最もするどい対立点となったが、最終的にはポル=ポト派も合意するという形で決着した。同意事項には各派の兵力の削減もあったが、ポル=ポト派は守らず、なおもタイ国境付近でゲリラ活動を続けた。しかし、ASEAN諸国などの国際世論は和平実現を後押ししたため、あくまで実力での解決を主張したポル=ポト派は次第に孤立し、中国からの支援もなくなり、戦闘力は急速に低下した。
 和平協定によってカンボジアを暫定的に統治した国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の監視の下で、1993年に総選挙が実施されると、ポル=ポト派はボイコットを呼びかけたが、予定通り行われ、シアヌーク支持派が第一党となり、新憲法が制定されシアヌークが国王に復帰し9月にカンボジア王国が成立した。政府の実権を握ったのは、かつてポル=ポト派から離脱して後にヘン=サムリン政権の首相となったフン=センであった。

ポル=ポト派の消滅

 カンボジアをめぐる国際情勢の変化について行けなかったポル=ポト派はジャングルの中で孤立し、脱落する党員が続出していった。96年にはポル=ポト派実力者と目されていたイエン=サリが離脱、シハヌークから恩赦を与えられた。翌年には猜疑心に駆られたポル=ポトは、和平を主張したソン=セン一家を虐殺、かえってそれが反発を受け、参謀総長タ=モクによって拘束され、失脚するという事件が起こった。ポル=ポトは98年4月に病死したとされるが、その死因には不審な点が多い。さらに同年、ヌオン=チアとキュー=サンファンが投降、99年には参謀総長タ=モクも投降して、ポル=ポト派は消滅した。<このあたり、山田寛『ポル=ポト<革命>史』2004 講談社選書メティエ などによる>

Episode ポル=ポトの死

 1998年、ポル=ポトはジャングルで死んだ。死因は心臓発作と伝えられたが、奇妙なことに普段はもう真っ白だったポル=ポトの髪が真っ黒になっていた。変装してタイに逃亡するため、妻に髪を染めさせていたところ、小屋の近くに政府軍の発射した砲弾が落下し、ショックで死んだのだ、というった情報も流れた。2002年にタイの軍部が言明したことによると検死結果によれば毒殺されたか,服毒自殺したに違いない、という。ポル=ポトに黙って死んでもらい、すべてをその責任にしたいと他の幹部が考えたのか、遺体は死の翌日、あっというまに火葬にされてしまった。<山田寛『ポル=ポト<革命>史』2004 講談社選書メティエ p.176-177>
 結局、ポル=ポトは大虐殺にどれだけ関わっていたのか、永遠に謎となり、ポル=ポト派裁判は、主役を抜きにして行われることになった。

ポル=ポト派裁判

 2003年、ポル=ポト派幹部を裁く特別法廷が開催することが決まった。裁判のありかたをめぐって紛糾したが、特別法廷は国際法廷ではなく「国連が支援するカンボジアの国内法廷」という形をとって開廷されることで決着がついた。その間、2004年にはシハヌーク国王が退位した。またポル=ポト死後の最高実力者と見なされていたタ=モク参謀総長も病死、裁判は時間との競争になった。
 ようやく2007年、当局は旧ポル=ポト派の主要メンバーの五人の生き残り、ヌオン=チア元人民代表会議議長、イエン=サリ元副首相、キュー=サンファン元国家幹部会議長、イエン=チリト元社会問題相(イエン=サリ夫人)、カン=ケ=イウ政治犯収容所長を逮捕し、起訴した。大量虐殺に直接かかわったとされる政治犯収容所長の裁判が分離して行われ、終身刑が確定した。2010年9月にヌオン=チア以下の4幹部に大量虐殺や人道の罪で起訴されたが、被告の高齢化などで審理は進んでいない。
 特別法廷は、国際法廷ではなく、被告をポル=ポト派5名に限定し、対象期間もポル=ポト政権の3年8ヶ月の範囲だけとすることによって、カンボジア内乱の全過程に直接、間接に関わった外国の責任は問われることなく終わるであろう。<舟越美夏『人はなぜ人を殺したのか ポル=ポト派かたる』2013 毎日新聞社 p.14-18,p202>

ポル=ポト派の弁明

 ポル=ポト派のメンバーは今、自分たちが行ったことをどう“総括”しているのだろうか。肝心ののポル=ポトの発言を聞くことはできなくなってしまったが、特別法廷を控えて弁明の機会を待つ被告たちに直接インタビューを試みたジャーナリストの伝える彼らの発言のいくつかを拾ってみよう。
・ナンバー2であったヌオン=チア ……私たちは力を尽くした
「カンボジアの真の独立こそが、私の目的だった。だが、われわれの統治機関(3年8ヶ月)は短く、経済計画を成し遂げられなかった。このことについては申し訳ないと思っているし、敵のために多くの人が死んだことは残念だ。だが、カンボジアの真の独立を守るため私は力を尽くした。私は間違っていなかった。われわれは正しかったのだ。われわれが革命を成功させたのは、多くの人が支持したからに他ならない。」<p.27>
・イエン=サリ(ポル=ポトの義弟。外交責任者)……私たちは有頂天だった
「われわれは有頂天になっていたんだ。ロン=ノル政権を倒し、その後ろ盾だった世界最強の米軍に勝ったのだとね。自信過剰になって、世界の誰にもできなかったことでも実現可能なのだと思うようになってしまった。誰の忠告も聞き入れなくなった。結局、それが敗北につながったんだ。」<p.59>
・キュー=サンファン(元国家幹部会議長)……私のような知識人は・・・
「私は知識人として、民主カンプチア政権時代の前も後も、人々から尊敬されてきた。それはカンボジアの人に聞いてもらえば分かることだ。・・・(インタビューに答えて)」<p.73>
「私には、重要な決定をする権限はまったくありませんでした。私は最近まで、虐殺や強制移住についての決定がいつなされたのか、まったく知りませんでした。・・・私は実際に起こっていることも把握できない愚か者でした。それは私の誤りです。(後に出された公開書簡で)」<p.86-88>
 このように、責任逃れの弁明がほとんどであった。そのほかこの書は、ポル=ポトの秘書やヌオン=チアの妻、ポル=ポト派に家族を虐殺された通信社の同僚チャン=クリスナーなどからの聞き取りをもとに、興味深いポル=ポト政権分析の書となっている。<舟越美夏『人はなぜ人を殺したのか ポル=ポト派かたる』2013 毎日新聞社>
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ノートの参照
第16章3節 エ.ベトナム戦争とインドシナ半島
書籍案内

冨山泰『カンボジア戦記―民族和解への道』
1992 (中公新書)

熊岡路矢
『カンボジア最前線』
1993 岩波新書

山田寛
『ポル・ポト<革命>史』
2004 講談社選書メチエ

舟越美夏
『人はなぜ人を殺したのか ポル=ポト派、語る』
2013 毎日新聞社
DVD案内

ローランド=ジョフィ監督
『キリング・フィールド』
出演 ジュリアン・サンズ
サム・ウォーターストン