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中越戦争

1979年、文化大革命後の中国とベトナム戦争後のベトナムが、カンボジア問題から対立し、戦争となった。中国軍は間もなく撤退し、短期間で終わった。この後、中国は鄧小平の改革開放、ベトナムはドイモイ政策へと転換を図る。

 中国は文化大革命後の華国鋒政権の下、経済建設計画が進められていたが依然として毛沢東思想の影響が強く、ソ連との対決姿勢も維持するなかで行き詰まっていた。ベトナム戦争以後、親ソ政策に踏み込んだベトナム社会主義共和国と関係を悪化させていった。ベトナムは、隣国のカンボジアのポル=ポト政権が中国寄りの姿勢を強め、さらにベトナム南部国境で領土を主張していることから対立を深めていた。ベトナム軍のカンボジア侵攻が決行され、ベトナム軍は1979年1月には首都プノンペンを制圧し、ベトナムの影響下にあるヘン=サムリン政権を樹立した。

鄧小平の外交工作

 プノンペン陥落を受けて中国政府の実力者鄧小平は、ベトナムに対する懲罰の必要を表明し、同時に各国への暗黙の同意を取り付ける外交努力を極秘のうちに進めた。1月28日には鄧小平はワシントンを公式訪問し、カーター大統領にベトナム懲罰の意図とそれが限定的、短期間であることを説明し、「精神的支援」を要請、帰途には東京にも立ち寄り日本政府にも事前了解を求めたという。また様々な外交チャンネルによりソ連は参戦しないという確証を得ていたという。<坪井善明『ヴェトナム 「豊かさ」への夜明け』1994 岩波新書 p.23>

限定された戦争

 1979年2月17日未明、中国はベトナムのカンボジア侵攻に対する懲罰として一気にベトナム国境を越境して侵攻し、中越戦争が勃発した。中国人民解放軍は約8万5千、26地点から侵攻し、当初は朝鮮戦争で有名になった人海戦術を採ったが、ベトナム軍の落とし穴やトンネルなどのゲリラ作戦にはまり、3日間に何千名もの死傷者を出し、大損害を蒙った。そこで戦術を大砲と戦車を主役とするものに替え、27日からランソンへの攻撃を開始し、激戦のあと、3月5日に占領した。その数時間後に、中国政府は予定の目標を達成したと発表し、同日ただちに撤退を開始した。この間、中国軍はベトナムの国境地帯を徹底的に破壊した。こうして「攻める方が目標と期間を定めた懲罰のための“奇妙な”中越戦争は終了した。」<坪井善明『同上書』p.24>

Episode 消えた「友誼関」

 中国とベトナムを結ぶ幹線道路の国境地点は、かつては中国では「鎮南関(チンナンカン)」と呼ばれていた。秦漢時代から続く、ベトナム征服の軍隊がここを通ったからである。それが第二次世界大戦後に「友誼関(ユウギカン)」に改められた。友誼とはフレンドシップの意味であるから、中国・ベトナムの人民の連帯を表すものとして中国革命後に名づけられたものだ。ところが、1979年の中越戦争ではこの付近が激戦地の一つとなった。中国軍はここからベトナムに侵攻し、国境の南のランソンを占領したのだった。それ以来、ベトナム側は「友誼関」の名前を決して使わない。地図の上でも抹消されているという。<坪井善明『同上書』p.4>

改革開放とドイモイへ

 この戦争は限定的であったとしても中国の国民生活に多大な負担を強いることとなり、最高政策決定者として華国鋒に対する批判が強まり、鄧小平への政権移譲が行われることとなった。鄧小平政権は、文化大革命での経済停滞を打破するために、改革開放政策への転換を模索することとなる。
 一方のベトナムでも、ベトナム戦争が終わったにもかかわらず、カンボジア侵攻と中越戦争が相次いだため、好戦的姿勢の共産党政権に対する批判も民衆の中に起こっていった。また、特にベトナム南部の旧サイゴンの市民には動揺が広がり、ボートピープルとして海外に逃れようとする難民が増加した。このような社会不安は経済の悪化をもたらし、ようやくベトナム内部でも改革の声が強まり、1986年のドイ=モイ政策への転換へと向かうことになった。

中国とベトナムの国交回復

 中越戦争後、中国・ベトナム関係は冷え切っていたが、改革開放路線を歩む中国と、ドイモイ政策を採るベトナムは、それぞれ経済的利益を求めて、関係を修復する機運が出てきた。1991年、ベトナムの首脳が中国を訪問し、両国の関係正常化で合意し、貿易協定に調印して友好関係を復活させることとなった。92年には旧「友誼関」も含めて12の国境地域で取引を開始することが決まった。こうして「友誼関」も復活しつつある。
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ノートの参照
第17章2節 ウ.アジア・アフリカ社会主義国の変動
書籍案内

坪井善明
『ヴェトナム 「豊かさ」への夜明け』
1994 岩波新書