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カンボジア内戦

カンボジアでは第二次世界大戦後にシハヌーク国王の下でフランスから独立したが、1970年、ベトナム戦争に巻き込まれる形でアメリカの支援するロンノル政権によってシハヌークが追放されると内戦状態となった。ポル=ポトらに代表される共産勢力は軍事独裁とアメリカ帝国主義への服従を拒否して蜂起し、1975年から79年まで権力を独占したが、それもベトナムの介入で倒れて内戦が再発し、国連の介入によって1991年に一応の収束を迎えるまで、22年にわたって内戦が続いた。

ロン=ノル政権

 カンボジアでは1970年、ベトナム戦争が激化する中、反米姿勢をとるカンボジア王国シハヌーク政権に対し、親米右派のロン=ノル将軍がクーデターを敢行、シハヌークは滞在中の中国に亡命し、ロン=ノル政権が登場した。同年、アメリカはカンボジアに侵攻し北ベトナムからの支援ルート遮断をめざした。こうしてベトナム戦争はカンボジアに(ついでラオスにも)拡大、またカンボジアはアメリカと結んだロン=ノル政府軍、シハヌークの旧政府軍、ポル=ポトらの左派が指導する赤色クメール(クメール=ルージュ)の三つどもえの内戦状態に突入した。シアヌークは赤色クメールと反米・反ロン=ノルで共闘するカンプチア民族統一戦線を結成した。

ポル=ポト政権の成立

 1973年春から、解放勢力(シハヌーク派と赤色クメール)の攻勢が強まり、首都プノンペンに迫った。ロン=ノル政権は南ベトナム政府軍とアメリカ軍に支えられようよく維持できていたが、アメリカではニクソン大統領がウォーターゲート事件で辞任し、代わったフォード大統領の議会への軍事援助の提案は拒否された。そのため、75年4月、プノンペンは解放されてロン=ノルはインドネシアに亡命した。  ロン=ノル政権を倒す中心勢力となったのは赤色クメールであったが、そこ指導者の名前からポル=ポト政権と言われる。ポル=ポト政権は、当面、シハヌークを国家元首としたが、事実上はプノンペンに幽閉し、実権を握った。国号は民主カンプチア(カンボジアと同義)と改められた。

ポル=ポト政権

 ポル=ポト政権は1976年、選挙で信任を受けた形をとり、全面的な共産化政策を展開した。国際的には文化大革命の中国の影響が強く、その支援を受け権力を維持した。その政策は、農業主体の極端な共同社会を建設し、通貨を廃止するなどの極端な原始共産制の実現を強行しようとするもので、反対派に対する弾圧など強圧的支配をとり続け、多数の犠牲者が出た。
 ポル=ポト政権によって殺害されたのは主として都市出身の知識人であったが、1975年から78年までの間の犠牲者は約170万と言われている。また、親中国政策をとるポル=ポト政権に対し、ベトナム戦争後、中国と対立するようになったベトナムは警戒心を勤め、1977年末には国境で紛争が起こるようになった。

ベトナム軍の侵攻

 1978年末にベトナム社会主義共和国軍はベトナム軍のカンボジア侵攻し、1979年1月に首都プノンペンを占領、ポル=ポト派を排除して親ベトナム政権ヘン=サムリン政権を樹立し、国号はカンボジア人民共和国となった。しかしこの政権はベトナムの全面的な支援を受けていたため、国際的に承認されず、カンボジアではヘン=サムリン政権に対してシハヌーク支持派、ポル=ポト派、穏健共和派のソン=サン派の三派が連合政権を樹立して内戦を展開した。しかし、三派内部も足並みがそろわず、四派が入り乱れた内戦が続いた。

冷戦の終結の中で

 カンボジアとベトナムの対立の背後には中国とソ連の対立、いわゆる中ソ対立があった。しかし、中国は文化大革命で疲弊し、ソ連は社会主義経済の停滞から脱却する為の改革をめざすゴルバチョフ政権が登場する中、次第にカンボジア内戦にも和平の機運がうまれてきた。1989年の東欧革命が進捗して米ソ首脳が冷戦の終結を宣言、ベトナム軍も撤退を余儀なくされたことから、パリにおけるカンボジア和平のための国際会議が断続的に進められていった。

内戦の終結

 1991年、パリでカンボジア和平協定が成立、22年ぶりで内戦は終結した。翌92年より国連カンボジア暫定行政機構(UNTAC)が活動(この時始めて日本の自衛隊がPKO=平和維持活動の一環として海外に派遣された)し、93年にその監視の元で選挙が実施され、安定を回復した。93年に9月に憲法を改正し、立憲君主制に復帰、カンボジア王国となり、シハヌークが国王となった。現在はポル=ポト派時代の大量虐殺事件の責任を追及する特別法廷が開設されているが、ポル=ポトはすでに1998年に死亡、投降した元幹部も高齢化し、審判がどのように進むかは不透明である。

Episode 『地雷を踏んだらサヨウナラ』

 1973年11月、カンボジア内戦を取材していた報道カメラマンが、アンコール=ワット付近で消息を絶った。フリーで戦場を駆け巡っていた一ノ瀬泰造、26歳だった。その写真はアサヒグラフ、ワシントンポストなどで取り上げられ、若手のカメラマンとして評価され、注目されていた。初めはUPI特派員だったがフリーになり、バングラデシュ、カンボジア、ベトナムを単独で取材して廻った。そして目標を当時、クメールルージュ(まだポル=ポト派とは言われていなかった)が支配して西側のジャーナリストが入れなかったアンコール=ワットに定め、シェムリアップ村を拠点に活動し、単独で解放区への潜行を試みたのだった。
 その目的を達することができず、行方不明となり、1982年に両親によってその死が確認された。残された彼の写真と手紙や日記で構成した『地雷を踏んだらサヨウナラ』は、刊行されるとベストセラーとなり、映画化もされた。その写真が生々しい戦場を伝えるだけでなく、発表するために書いたのではない文章に、飾り気のない、青年のいきいきとした鼓動を感じることができる。また、彼が愛したカンボジアの人々、女たちの、あからさまな姿が描かれている。
 彼の死後、カンボジアは75年にポル=ポト派によって“解放”された。しかし、友人の高校教師ロックルーを初め、シェムリアップ村の人たちはその後どうなったのだろうか。知ることはできない。<一ノ瀬泰造『地雷を踏んだらサヨウナラ』1985 講談社文庫>
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ノートの参照
第16章3節 エ.ベトナム戦争とインドシナ半島
書籍案内

冨山泰『カンボジア戦記―民族和解への道』
1992 (中公新書)

熊岡路矢
『カンボジア最前線』
1993 岩波新書

山田寛
『ポル・ポト<革命>史』
2004 講談社選書メチエ

一ノ瀬泰造
『地雷を踏んだらサヨウナラ』
1983 講談社文庫