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チャム人

ベトナム中部から南部にかけて独自の文化を有し、チャンパーという国家を建設した民族。中国史上は林邑、占城として現れる。16世紀にはベトナム人の支配を受けるようになるが、現在も少数民族として残っている。

 インドネシア人などと同じくオーストロネシア語族で、ベトナム人(オーストロアジア語族)とは系統が違う。紀元前後にベトナム中部に登場するが、それ以前の前2000年頃に成立した青銅器文化であるサーフィン文化との関連が強いと考えられている。はじめ漢の日南郡の支配を受けていたが、2世紀頃から中部ベトナムを中心に交易に従事し、国家を形成した。いわゆる港市国家の一つと考えられる。  史料上では192年にベトナム中部のユエ付近で自立し、中国の史料には林邑(リンイ)として現れ、347年には范文王が北方に進出して中国の制度を取り入れている。しかし4世紀にはインド化の波がベトナム中部にも及び、ヒンドゥー教が取り入れられていった。

チャンパー国

 インド化した結果、チャム人たちは自らをサンスクリット語であるチャンパーと自称するようになった。范文王の孫のヴァドラヴァルマンは南に勢力を伸ばして現在のダナンの西方にヒンドゥー教の聖地ミーソンを建設した。また王都シンハープラ(獅子城)を建設(現在のチャキュウ。城壁のみが残る)、トゥーポン川の河口のチャンパプラ(現在のホイアン)は貿易港として栄えた。
 8世紀中葉には、北のベトナム人(キン人)が南下してきたために圧迫され、王都を南方に移したが、ジャワ島のシャイレーンドラ朝の侵略を受け、859年に滅亡した。

ベトナム人、クメール人との抗争

 9世紀のうちにチャム人はチャンパー国をベトナム中部のドンズオン(インドラプラ)に王都を再建した。この時代以降のチャム人の国を中国史料では占城として現れる。それはチャンパプラ=占婆城の略である。その後、北方のベトナム人の諸王朝と南方のクメール人のアンコール朝との激しい抗争が続く。ベトナムの黎桓(レファン。前黎朝を建国)によって王都を破壊されたため、1000年には都をインドラプラから南のヴィジャヤ(現在のビンディン)に撮した。さらに11世紀にはベトナム(大越国)の李朝が三度にわたってチャンパーに遠征し、領土を奪われた。しかしチャンパーは海上貿易で勢力を盛り返し、1177年にはアンコール=トムを襲撃したことが、アンコール遺跡のバイヨン寺院の回廊のレリーフに描かれている。

チャム人の全盛期

 1281年には元のフビライ=ハン元の遠征軍をチャンパに派遣し、ヴィジャヤを攻撃した。しかしチャンパーは激しく抵抗して元軍を撃退、さらに1284年には元軍が再び来襲したが、暴風のために撤退した(日本の元寇と同じような経過をたどっていることに注目)。 14世紀後半には、しばしばベトナム北部の陳朝に攻撃を仕掛け、首都ハノイを略奪している。
 このようにチャム人は、一時ベトナム人やクメール人を上回る勢力を有していたが、それは15世紀までで終わり、1471年に北部ベトナムの黎朝(後黎朝)によってヴィジャヤを占領され、チャンパー国は衰退に向かう。

チャム人の文化

 チャム人は建築と彫刻に優れた造形美を発揮しており、中部から南部ベトナムに多くの遺跡を残しておる。その宗教建築の特徴はレンガを主要な材料としていることで、土と水と火という三つの根源的な物質から変化してできるレンガによって神を祀る祠堂を作るという信仰にもとずいていた。その彫刻は現在、ダナンのチャム美術館に収納されている。チャム美術館は1915年にフランスのチャム文化研究家アンリ=バラマンティエによって建設されたものである。<坪井善明『ヴェトナム 「豊かさ」への夜明け』1944 岩波新書 p.43>
 ベトナム中部から南部で見られる「カラン」という石塔は、チャム人が残したものである。チャム人は現在はベトナムの山岳地帯に住む少数民族として存在している。
占城稲 中部ベトナムでチャム人が栽培していた稲の種類は、宋代に中国に伝えられて占城稲(チャンパー米)と言われた。これは日照りに強い早稲であったので、長江下流域で広く栽培されるようになり、それによって「蘇湖熟すれば天下足る」と言われるようになった。また、鎌倉末には日本にも伝えられ、大唐米(または赤米)といわれて広く普及し、日本の農業生産力を高める一因となった。

カンボジア内戦時代のチャム人

 チャム人はカンボジアにおいても少数民族として存在していたが、1975~79年のポル=ポト政権の時代には大きな試練があった。
(引用)少数民族のうち、最も悲惨な目に遭ったのはチャム族である。チャム族は、17世紀にベトナムに滅亡させられたチャンパ王国の国民の末裔で、イスラム教を信仰し、カンボジア人の大半を占めるクメール民族とは言葉も慣習も異なる。このチャム族も革命への奉仕を強制され、イスラム教の寺院や教典「コーラン」は破壊され、他のカンボジア人と同じく共同農場に送り込まれた。抵抗する村では、住民が皆殺しにされた。ポル・ポト時代に、チャム族は半数が殺されたといわれる。<冨山泰『カンボジア戦記』1992 中公新書 p.33-34>
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ノートの参照
第2章2節 イ.インド・中国文化の受容