印刷 | 通常画面に戻る |

ミッテラン

1981年から95年までフランス第五共和政の大統領を務めた、社会党党首。

 ミッテラン François Mitterrand (1916-96) 第二次世界大戦中は対独レジスタンスに加わり、戦後は中道左派に属する若手政治家として台頭、フランス第四共和政では何度か閣僚を経験した。この間、一貫して反ド=ゴールの立場をとり、1965年、69年、74年の大統領選挙に出馬したが、いずれも落選した。この間、1971年には再建されたフランス社会党の書記長に選ばれ、革新勢力の連携に力を入れた。ポスト・ド=ゴールのポンピドゥーはド=ゴール主義を継承し、ジスカールデスタンは反ド=ゴールを唱えたものの経済が低迷し、国民が変化を求めるようになったことと、それまでフランス共産党がソ連寄りの姿勢を改め、社会民主主義陣営とも協調するようになったことを受けて1981年の大統領選挙で当選を果たし第五共和政第4代大統領となった。1948年に社会党・共産党・MRPによる三党内閣(ド=ゴール臨時政府)が解体して以来、33年ぶりの革新政権の成立となったのであり、現代のフランスでの大きな転換点となった。

社会党政権を樹立

 ミッテラン社会党政権は、インフレと失業者の増大という経済危機に対し、ケインズ的な経済政策、つまり「大きな政府」を掲げ、公共投資の増加、国有化の推進による雇用の拡大、最低賃金の引き上げや社会保障の拡充による購買力の向上をめざした。当時主流であったイギリスのサッチャーやアメリカのレーガンのとった「小さな政府」とは対照的な政治を行っていた。また地方分権や教育改革にも取り組んだが、景気の回復には結びつかず、1986年総選挙では社会党は敗北した。やむなくミッテランは首相に保守派のシラクを指名し、大統領が左派、首相が右派という、保革共存(コアビタシオン)という状態になった。その後は外交は大統領、内政は首相という棲み分けを行い、ミッテランは大統領を続けた。保革共存はミッテランの二期目でも首相バランデュールとの組み合わせで行われた。

選挙での敗北

 ミッテラン政権はその後も極右勢力の台頭(ルペンの率いる国民戦線FN)や移民問題などで揺れたが、ミッテラン個人的人気で乗り切ってきた。外交面ではソ連との友好を図るとともに、アメリカのNATO戦略も容認する現実的な動きをし、またヨーロッパの統合でもイニシアチブをとり続けた。ミッテラン政権は二期14年に及んだが1995年の大統領選挙では保守派のシラクが当選し、終わりを告げた。翌年1月、前立腺ガンで死去した。
印 刷
印刷画面へ
ノートの参照
第17章1節 イ.先進経済地域の統合化