印刷 | 通常画面に戻る |

ヨーロッパの統合

第一次大戦後に始まり、第二次大戦後に具体化し、ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体・ヨーロッパ経済共同体・ヨーロッパ共同体などを経てヨーロッパ連合(EU)へと発展した、

第一次大戦後の統合運動

 ヨーロッパ統合の源流は、第一次世界大戦後に遡ることが出来る。1922年にオーストリアの外交官であったクーデンホーフ=カレルギーは『パン=ヨーロッパ』を著し、大戦後に明らかになったアメリカ合衆国の優位と、ソ連というあたらしい勢力に飲み込まれないためには、ヨーロッパ諸国は統合されヨーロッパ合衆国になる必要がある、と説いた。
ブリアンの統合案 また不戦条約の提唱者であったフランスの外相ブリアンはその思想に共鳴し、1929年にヨーロッパ統一案を国際連盟の総会に諮った。ブリアン案は、国際連盟の地域的連合として「ヨーロッパ会議」を設け、紛争の調停、集団安全保障を実現すること、ヨーロッパ全域の関税障壁を廃止して共同市場化することなど、微温的なものであったがヨーロッパ各国の同意を得られなかった。ドイツは参加の条件としてヴェルサイユ条約による差別撤廃を要求し、イタリアは植民地の共同管理も持ち出した。またイギリスもイギリス連邦の特恵関税と両立しないことを理由に反対した。結局、1929年に世界恐慌が勃発し、イギリス・フランスはブロック経済の形成に進み、ドイツ・イタリアは枢軸国家を形成し、ヨーロッパ統合案は霧散した。

第二次世界大戦後の動き

 第二次世界大戦で徹底的な打撃を受けたヨーロッパの経済は、アメリカのマーシャル=プランの資金で復興への道筋ができ、一方で東ヨーロッパ諸国が次々と社会主義化しソ連の衛星国となっていくという事態が進む中、前イギリス首相チャーチルは1946年9月、チューリッヒ大学で講演し、ヨーロッパ連合の呼びかけを行った。
ヨーロッパの復興 そのような気運の中でチェコスロヴァキアのクーデターで共産党政権が成立したのを機に、1948年3月、ブリュッセル条約が成立して、イギリス・フランス・ベルギー・オランダ・ルクセンブルクの5ヵ国が西ヨーロッパ連合を結成した。東西冷戦が深刻化すると、アメリカの関与が強まり、マーシャル=プランの受け入れ機構としてヨーロッパ経済協力機構(OEEC)が、軍事機構としての北大西洋条約機構(NATO)が結成されたが、これらはアメリカ主導のものであった。
シューマン=プラン アメリカ主導のヨーロッパ統合の動き対して、ヨーロッパの自主的な統合の気運が次に現れてくる。その最初が1950年にフランス外相シューマンの提唱したシューマン=プランによって、ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)が発足した。これはフランス国境に近い西ドイツのルール地方とザール地方の石炭・鉄鉱石などの資源と工業施設を、隣接する諸国で管理運営することことを通じ、長く独仏紛争の原因となっていた国境紛争を回避し、ヨーロッパの安定をもたらすものと期待された。

ヨーロッパ統合の進展

ローマ条約 1957年にはローマ条約が成立し、フランス、西ドイツ、イタリア、ベネルクス三国(ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)の6カ国がヨーロッパ経済共同体(EEC)ヨーロッパ原子力共同体(EURATOM)を発足させた。特にEEC結成により、ヨーロッパは一つの経済的まとまりを持つ共同市場を目指したが、イギリスは不参加を表明し、むしろそれに対抗して1960年にその他の7ヵ国を組織し、ヨーロッパ自由貿易連合(EFTA)を結成した。
ヨーロッパ共同体 1967年、従来のECSC・EEC・EURATOMの三者が統合してヨーロッパ共同体(EC)が結成された。結成当初はフランス、西ドイツ、イタリア、ベネルクス3国(ベルギー・オランダ・ルクセンブルク)の6ヵ国が参加した。この頃になるとイギリスも加盟を申請するようになったが、フランスの反対で実現できなかった。
拡大EC 1973年にはそれまで加盟を拒否されていたイギリスの加盟が認められ、アイルランド・デンマークも加盟して拡大ECとなった。さらに80年代にはギリシア、ポルトガル、スペインが加盟して12ヵ国体制となった。EC加盟国が増加し、ヨーロッパ経済の統合が進んだ結果、1970年代の世界経済は、アメリカ合衆国一極から、経済統合を進めたヨーロッパ、高度経済成長をとげた日本を加えた三極構造に転換していった。
ヨーロッパ連合へ 加盟国を増やすとともに統合を経済面から政治面、安全保障面での意義も深まり、1993年にマーストリヒト条約により現在のヨーロッパ連合(EU)に発展的に解消した。