北大西洋条約機構/NATO
1949年結成のアメリカを含む西側諸国の集団的軍事機構。東西冷戦期にはソ連東欧圏への抑止力となっていたが、冷戦後はその性格を変化させヨーロッパ=北大西洋地域全体の安全保障機構となっている。しかし1999年以降、加盟国の東方拡大が進んだことから、ロシアが警戒感を強め、特にウクライナ加盟問題では再び軍事的緊張が高まっている。
(1)NATOの成立
成立までの経緯
アメリカの「封じ込め政策」が始まり、東西冷戦が深刻化する中、1948年2月、チェコスロヴァキアでクーデタが発生し、共産党政権が成立すると、それに衝撃を受けたイギリス(アトリー)は同1948年3月、フランスおよびベネルクス三国と西ヨーロッパ連合条約(ブリュッセル条約)を結び、共同防衛をとることとした。6月にはアメリカ、イギリス、フランスの西側が占領地域である西ドイツの経済統合をめざして通貨改革を実行すると、ソ連はただちにベルリン封鎖を強行し、対立は頂点に達した。1949年1月には東側諸国はCOMECONを結成、ソ連の核開発が進み、またアジアでは国共内戦で共産党の優位が明らかになっていた。そのような情勢の中で、西欧同盟諸国(ブリュッセル条約加盟国)は西側の防衛力強化に迫られ、アメリカに働きかけて、北大西洋でソ連圏を包囲する軍事同盟網を結成する構想が生まれた。1949年4月、西欧同盟諸国にアメリカ合衆国、カナダ、ノルウェー、デンマーク、アイスランド、イタリア、ポルトガルが加わり、12ヵ国によって北大西洋条約を締結した。
1950年、アジアで朝鮮戦争が始まったことは、北大西洋条約加盟国に不安感を与え、より包括的かつ現実的な軍事同盟機構を設立しようという動きとなり、1952年に初代の事務局長が就任して条約に基づく北大西洋条約機構(NATO)が発足した。
集団的自衛権の主張
北大西洋条約第5条に「(条約加盟国の)一国ないし二国以上に対する武装攻撃は全ての(加盟)国に対する攻撃と見なす」と規定しており、それにたいしては国際連合憲章第51条で認められた集団的自衛権を行使すると定めた。その目的は、名指しはされていないがソ連および共産圏(東側)を仮想敵勢力としてその武力侵攻から共同防衛をはかることにあった。その目的に従い、機構加盟国は兵員を拠出して、北大西洋軍(NATO軍)を編制した。アメリカの孤立主義放棄
ファシズムから自由と民主主義を守るという名分によって第二次世界大戦に参戦(日本の真珠湾攻撃がその口実を与えた)したアメリカ合衆国は、その使命感から国際連合の設立をリードした。冷戦が深刻になると、共産主義との対決という名目のために、従来のモンロー主義以来のアメリカ外交の原則であった孤立主義を放棄して集団的自衛権をかかげ、1949年の北大西洋条約機構(NATO)をはじめ、50年代には中華人民共和国の成立、朝鮮戦争という情勢に対応してANZUS条約、日米安保条約、SEATO結成など、ソ連包囲網を形成する。この転換を国内的に承認したのが、1948年のヴァンデンバーグ決議だった。西ドイツの加盟
アメリカ・イギリス・フランスと西ドイツの西側諸国が締結したパリ協定に基づき、1955年5月5日に西ドイツが再軍備を認められ、翌日、加盟すると、ソ連は強く反発して1955年5月14日、NATOに対抗する軍事機構としてワルシャワ条約機構を結成した。こうして冷戦期間中、NATO軍はソ連=ワルシャワ条約機構軍と対峙する抑止力として機能していく。NATOとフランス
フランスのド=ゴール大統領は、NATOを通してのアメリカ合衆国のヨーロッパへの介入に反発するようになり、1966年7月に軍事部門から脱退した。北大西洋条約そのものからは離脱しなかったが、NATO軍の足並みが乱れたことは確かであった。フランスはその後、1995年に部分的に復帰し、2009年3月にサルコジ大統領のもとでNATO軍事機構に完全復帰することを表明した。冷戦終結後のNATO
1989年12月の米ソ首脳によるマルタ会談、翌1990年10月の東西ドイツの統一による冷戦の終結を受け、NATOは大きく変容し、1990年の7月「ロンドン宣言」で「ワルシャワ条約機構」と敵対することを放棄した。1991年7月にはそのワルシャワ条約機構が解散した。にもかかわらず、NATOが存続しているのは、統一ドイツの「ひとり歩き」をさせず、NATOの枠組みの中に置いておくことが意図されていた。<佐瀬昌盛『NATO』1999 文春新書 p.22>現在のNATOは、ヨーロッパ=北大西洋地域全体の安全保障機構に移行し、旧東ヨーロッパ諸国の加盟を進めている。ユーゴスラヴィア内戦では平和維持軍を派遣し、1999年3月にはコソヴォ紛争で「人道的介入」を掲げて空爆を行った。
ロシアの準加盟と取消 さらに2002年5月にはロシアの準加盟を承認した。このままいけば、NATOはロシアまで含めた安全保障の枠組みに拡張されると思われたが、ロシアのプーチン政権は次第に反NATOに転換し、2014年にクリミア併合を強行してウクライナとの紛争が起ったため、ロシアの準加盟は撤回された。ロシアはNATOの東方進出に対し、現在、神経を尖らしており、新たな不安材料となっている。 → NATOの変質
資料 北大西洋条約
アメリカのワシントンDCで1949年4月4日に締結された北大西洋条約の主な条文はつぎのような部分である。前文 この条約の締結国は、国連憲章の諸目的と諸原則に対する自らの信念、そして全民族と全政府とともに平和に暮らそうとする願いを再確認する。彼ら(締約国)は自由、民主主義の諸原則、個人の自由及び法の支配に基づき築かれた、諸国民の共有の遺産及び文明を守る決意をした。彼らは北大西洋地域における安定と安寧の促進を希求する。彼らは集団防衛及び平和と安全保障を維持するため努力の結集を決意する。彼らはそれ故、この北大西洋条約に合意する。
第5条 締約国は欧州または北米の一締約国以上に対する武力攻撃を全調印国への攻撃と見なすことに合意し、そのような武力攻撃の生じた場合、国連憲章51条に認められた個別又は集団的自衛権の行使により、北大西洋地域の安全保障の回復と維持のため、各々が、武力の使用を含む、必要と考える行動を、個別に、そして他の調印国と共同し速やかに執ることによって、攻撃された締約国を援助することに合意する。そのようなあらゆる武力攻撃とその結果としてとられたあらゆる措置は、直ちに安全保障理事会に報告されるべきである。そのような措置は安保理が国際平和と安全保障の回復と維持に必要な措置を講じた時、停止されなければならない。<谷口長世『NATO -変貌する地域安全保障-』2000 岩波新書 p.191->
(2)NATOの目的
当初は東側(ソ連および東欧諸国の共産圏)からの武力侵攻に対する共同防衛をはかる軍事同盟であったが、冷戦終結後も存続しているのはなぜか。
北大西洋条約の前文には、「国際連合憲章の目的及び原則に対する信念並びにすべての国民及び政府とともに平和のうちに生きようとする願望を再確認」し、「民主主義、個人の自由及び法の支配の諸原則の上に築かれたその国民の自由、共同の遺産及び文明を擁護する」ことを掲げ、「北大西洋地域における安定及び福祉の助長に努力」し、「集団的防衛並びに平和及び安全の維持のためにその努力を結集する決意を有する。」と述べている。
また第5条には、「ヨーロッパ又は北アメリカにおける一又は二以上の締約国に対する武力攻撃を全締約国に対する攻撃とみなすことに同意する。したがって、締約国は、そのような武力攻撃が行われたときは、各締約国が、国際連合憲章第51条の規定によって認められている個別的又は集団的自衛権を行使して、北大西洋地域の安全を回復し及び維持するためにその必要と認める行動(兵力の使用を含む。)を個別的に及び他の締約国と共同して直ちに執ることにより、その攻撃を受けた締約国を援助することに同意する。」とある。
結成時の目的
あきらかにソ連および東欧圏の武力侵攻に対する西側の共同防衛が目的であったが、すでに存在した西欧同盟に加えてアメリカが加わったのは、西欧諸国としてもアメリカの軍事力に依存せざるを得ず、アメリカをヨーロッパ防衛の盾としてつなぎ止めておく必要があったからである(アメリカ国内には伝統的な孤立主義が上院などに根強く、NATO加盟反対の意見もあったが、トルーマン、アイゼンハウアー政権はいずれもNATOを支持した)。西ドイツ加盟による目的の変化
1955年、西ドイツがNATO加盟を条件として再軍備を認められたことは、NATOの目的の中にドイツを西側陣営にひきとめておくという目的が含まれることになった。(そのため冷戦後もNATOは続いたと言える)。1952年からNATO初代事務局長を務めたイギリスのイスメイ卿はNATOの目的を「アメリカ人を引っ張り込み、ロシア人を閉め出し、ドイツ人を押さえ込んでおく(keep the American in,the Russian out and the Germens down)」ことだと喝破した。<佐瀬昌盛『NATO』1999 文春新書 など>(3)NATOの加盟国
原加盟国は12カ国であったが次第に加盟国が増え、とくに東欧社会主義圏の解体に伴って東欧諸国の加盟が続いており、現在は30カ国が加盟している。
NATO非加盟国 また、すべてのヨーロッパ諸国が加盟しているわけではない。スウェーデン・オーストリア・スイス・フィンランド・アイルランドは中立外交を標榜しており、軍事機構であるNATOに加盟していない。
西ドイツの加盟 朝鮮戦争後の1952年に、北大西洋とは距離的に遠いギリシア・トルコが加盟し、地中海東部にも地域が広がった。さらに1955年5月5日には西ドイツが再軍備を認められると同時に加盟し、ヨーロッパで東西陣営が直接対峙することとなった。これに反発したソ連は1955年5月14日、東側の軍事同盟であるワルシャワ条約機構を発足させた。
フランスの軍事機構脱退 ただし1966年7月1日には、アメリカに対して独自路線をとるド=ゴールが進めるド=ゴール外交の一環として、フランスが軍事部門から脱退した。ただしフランスは北大西洋条約から脱退したのではない。また95年には国防相会議参加などの形で部分復帰した。サルコジ大統領の2009年4月4日には完全復帰した。 → 現代のフランス
Episode ポルトガルはよし、スペインはだめ
NATO加盟国の中に小国が含まれているが、それぞれ加盟理由がある。デンマークはグリーンランドがその領土であり、北極海をはさんでソ連と対峙する位置にあるからであった。デンマークは加盟には踏み切ったが平時での他国軍の駐留は認めていない。カナダ、アイスランドやノルウェーも北極海をはさんでソ連の直接の脅威に対抗するには必要な地域であった。イタリアは北大西洋とは離れているが、将来NATOの東地中海方面への拡大が予定されていたので加盟した。意外なのがポルトガルだが、同じく大西洋に面したスペインは加盟しないにもかかわらず、加盟することとなった。その理由は、ポルトガル領のアゾレス諸島が大西洋上の重要な戦略基地であったからである。スペインは当時、フランコ独裁下にあって、NATOの掲げる「自由と民主主義」の理念に合致しないので除外された。もっともポルトガルも当時はサラザール政権という独裁政治が行われていたが、軍事的な理由を優先して加盟を認めた。当時はポルトガルはNATOの恥部といわれたのである。<佐瀬昌盛『NATO』1999 文春新書 p.51>スペインの加盟 スペインは1975年に独裁者フランコが死去し、立憲君主政のもとで民主化が進んだので、ようやく1982年に加盟した。これによってNATOは西ヨーロッパの主要な国々が加盟する、16ヵ国体制となった。しかし、スペイン国内にはNATO加盟に懐疑的な主張も多く、政権によっては脱退を検討することもでている。
加盟国間の紛争
ギリシアとトルコは国境紛争を抱えており、1970年代に紛糾した時期には、ギリシアが1974~80年の間、NATO軍事機構から脱退していた。アイスランドには、NATO軍は首都レイキャビク近くのケフラビク空軍基地に重要な対ソ軍事拠点とされていた。ところがアイスランドは周辺の海域のタラ漁でイギリス漁船にあらされていることに強い不満を持ち、1958年に漁業水域12海里を宣言、さらに75年には200海里に拡大した。それにイギリスが反発したため、海上で両国の漁船が争うタラ戦争となった。このときアイスランドはNATO脱退をほのめかしてアメリカに迫り、アメリカがイギリスを説得してイギリス漁船が侵犯しないことで決着した。 このようにNATOは加盟国間の問題も抱えている。
東方拡大 1989年の冷戦の終結後には旧東欧圏の加盟が始まり、NATOの東方拡大が進んだ。1999年のポーランド・チェコ・ハンガリー、2004年にルーマニア・ブルガリア・スロヴァキア・スロヴェニア・エストニア・ラトヴィア・リトアニアを加えて現在は26ヵ国となった。現在はさらにクロアティア、アルバニア、モンテネグロ、北マケドニアが加盟し30ヵ国となっている。<2019年2月現在> → NATOの東方拡大
(4)NATOの変質
冷戦終結後、対共産圏軍事同盟としての目的は消滅。東欧革命、ソ連の解体、ユーゴスラヴィアの解体に伴い、東欧に加盟国を拡大させ、全ヨーロッパの集団安全保障機構へと性質を転換させた。
冷戦終結後のNATO
1990年にNATO加盟諸国は「ロンドン宣言」を発表し、ワルシャワ条約機構を敵視することを放棄すると宣言、目的を一変させた。結成当時のNATOの目的は大きく変化したので、現在のものを「ニューNATO]という。東欧民主化によって成立した東欧諸国、ソ連解体に伴って成立したバルト三国などが相次いでNATO加盟を申請するようになると、ロシアはNATOが新たにロシアを敵視するのではないかと反発したが、97年にNATO諸国首脳がロシアのエリツィン大統領との間で「ロシアを敵視しない」という「基本文書」に署名、その結果東欧諸国のNATO加盟が実現した。 → NATOの東方拡大現在のNATO
「北大西洋」地域の安全保障にとどまらず、国際連合とOSCE(全欧安全保障協力機構)のもとで、民族紛争や人権抑圧、テロに対して、平和維持に必要な軍事行動を行うこととなった。その最初の行動が1999年のコソヴォ紛争でのNATO空軍のセルビア軍に対する空爆であり、アフガニスタンへの治安出動である。対ロシア軍事同盟への傾斜 2002年にロシアは準加盟国となったが、2014年のウクライナ危機がおこり、ウクライナ反政府軍への軍事支援の疑いが生じたため、ロシアの準加盟国は撤回された。NATOは集団安全保障機構という理念からはずれ、かつてのソ連に対抗する軍事同盟という性格を復活させ、対ロシアの軍事行動に対する集団的自衛権の行使へと進む気配を見せており、憂慮されている。
(5)NATOの東方拡大
東欧社会主義圏およびソ連の解体、ユーゴスラヴィア連邦の解体に伴い、東欧諸国が次々とNATOに加盟した。
東欧諸国の旧盟主であったロシアが不快感を表していたが、1999年のポーランド・チェコ・ハンガリーの旧ワルシャワ条約機構加盟国のヴィシェグラード=グループの加盟から始まり、NATOの東方拡大がつづくこととなった。その後、2004年にルーマニア・ブルガリア・スロヴァキア・スロヴェニア・エストニア・ラトヴィア・リトアニアを加えて26ヵ国となった。
2009年に旧ユーゴ連邦の一つ、クロアティア、さらに同年のアルバニア、2017年にモンテネグロが加盟した。そして2019年2月、国名問題でギリシアとの対立を解消した北マケドニアが30番目の加盟国となった。これで、旧ユーゴスラヴィア連邦ではボスニア=ヘルツェゴビナ、セルビア、およびコソヴォが未加盟として残っている。
ウクライナの危機
NATOが東方拡大を続けることは、その当初の対ソ連軍事同盟という性格から、ヨーロッパ全域の集団安全保障のための組織へと性格を変化させたとうけとられたため、ロシアも容認に転じ、2002年にはロシア自身が準加盟国になることが認められた。しかし、旧ソ連構成国でロシアに次ぐ大国であるウクライナのNATO加盟については、直接国境を接することになるロシアのプーチン大統領は神経をとがらせ、警戒するようになった。特に2004年にウクライナでそれまでの親ロシア政権が倒され、親NATO、親西欧の政権が誕生したことから、ロシアはウクライナの動きを警戒し、ウクライナ内部の親ロシア派を強く支援するようになった。2014年にはクリミア半島のロシア編入を決める住民投票が行われ、ロシア編入が決まった。続いてウクライナ東部のロシア人居住者の多い地域でもウクライナからの分離を主張する勢力が蜂起した。
NATOとロシアの対立明白に ロシアが親ロシア派を軍事的に支援していることも明白であったので、ウクライナは強く反発、内戦は東ウクライナに拡がった。それに対してNATOはウクライナ政府軍および東ウクライナの反ロシア勢力を支援し、戦いはNATO軍対ロシア軍の代理戦争の様相を呈した。このウクライナ紛争は、OSCE(全欧安全保障協力機構)による調停も難航し、深刻化したが2020年には一応の平穏を取り戻した。しかし、この紛争によってNATOとロシアの対立は決定的になったといえる。
ウクライナの北に位置する、旧ソ連圏のベラルーシでは、親ロシアのルカシェンコ大統領は反NATO、親ロシアの姿勢を崩していないが、2020年夏に大統領選挙の不正を糾弾する民衆暴動が起こり、混乱が生じた。新たな東西の綱引きが始まったという様相になっている。
2022/2/24 ロシアのウクライナ侵攻
2022年2月24日、ロシア連邦のプーチン大統領はかねて予告していた隣国ウクライナへの軍事侵攻を実行した。日本では突然の印象が強かったロシアのウクライナ侵攻であったが、プーチンの主張は2014年から続くウクライナ東部でのロシア系住民へのウクライナ政府による迫害(プーチンはネオナチによるジェノサイドだ、といった)からの防衛であり、NATO加盟の動きを見せるウクライナへの自制を求める特別軍事行動だ、と言うものであるが、国際的に認められている主権国家の領土を直接に侵攻したもので、侵略と言うべき行為であり、その後進んでいるのは戦争そのものである。第二次世界大戦以後、ヨーロッパにとって最大の、そして最初の危機といえる事態に、NATOがどうでるのか。アメリカのバイデン政権は、直接にNATO加盟国が侵攻されない限り軍事行動は起こさない、と再三表明しているが、周辺のNATO加盟国に対する軍事支援は増強している。第三次世界大戦へ転換、核戦争へのエスカレートをストップできるかどうか正念場を迎えているが、今回の動きをプーチンの一方的な暴挙と見るか、NATO側にロシアを追い詰めた責任があると見るのか、まだ判断はできない。<2022/3/12 記>
ロシアのウクライナ侵攻とNATO
ロシアのウクライナ侵攻に対しては、それまで統合の質をめぐって内部対立が表面化していたNATO諸国を、ウクライナ支援では足並みをそろえることとなり、期せずして軍事同盟としてのNATOの結束を強めることとなった。このロシアのウクライナ侵攻は、ロシアと国境を接するフィンランドと、バルト海でロシア領カリーニングラードと対面しているスウェーデンにも大きな衝撃を与え、長く中立政策を採っていた両国が大きく姿勢を転換させ、2023年4月にはフィンランド、2024年3月にはスウェーデンがNATO加盟を実現させた。これによって、2024年3月現在のNATO加盟国は32ヶ国となった。開戦後、アメリカ、ドイツ、フランスなど主要国は積極的に武器を提供しゼレンスキー政権を支えている。ポーランド、ハンガリーなど近隣諸国も協力している。NATO軍が直接派兵は自重されており、ロシアも核兵器の使用をちらつかせながら牽制している状態が通付いている。しかし、戦争が2年を超過して長期化する中で、アメリカの姿勢転換のおそれなどの懸念もうまれており、ウクライナ側の反撃にも勢いが見られなくなっているが、停戦の動きは見えていない。<2024/3/5記>