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モンゴル国

モンゴル人民共和国として社会主義国であったが、ソ連の解体に伴い社会主義を放棄し、1992年に国号もモンゴル国と変更した。

モンゴル地図

モンゴルの現在の国土 Yahoo Map をもとに作図

現在のモンゴル

モンゴル国旗

モンゴル国旗

 1992年の新憲法で、社会主義を放棄して議会制民主主義国家に変貌し、「モンゴル国」を国号とすることを定めた。首都はウランバートル。面積156万平方㎞(日本の約4倍)、人口約324万、大部分が草原と山岳地帯であるモンゴル高原に広がる。人種は95%がモンゴル人。言語はモンゴル語が唯一の公用語。文字はロシアと同じキリル文字だが、モンゴル文字の復活が進んでいる。国土は北をロシア、南を中国に挟まれ、13世紀からのモンゴル帝国が衰退してからは、両国の間での苦難が続いた。国境の画定も変遷があるが、現在の国境は1915年のキャフタ協定(1727年のキャフタ条約とは別)で、ロシア・中華民国・モンゴルの間で取り決められたものが踏襲されている。宗教は、モンゴル帝国以来のチベット仏教が多いが一部に伝統的な祖先崇拝も残る。政体は大統領を元首とする共和政で一院制議会。現在は複数政党が認められ、自由選挙が行われている。伝統的な遊牧の歴史をもつ畜産国であるが、最近では豊かな地下資源を利用した工業化に力を注いでおり、日本からの資本投資も多くなっている。

ソ連の衛星国から脱却

 モンゴルは長く清朝の支配を受けた後、辛亥革命で清が倒れたため自治権を獲得していた。1921年に社会主義革命を達成し、1924年に「モンゴル人民共和国」が成立し、ロシアに次ぐ史上2番目の社会主義国となった。その後、国境を接するソ連邦と密接な関係が続き、モンゴル人民革命党による一党独裁政治が続いた。その下で、モンゴル文字の使用を止め、ロシアと同じキリル文字を強制するなど、ソ連寄りの社会主義経済、文化政策がとられ、ソ連の忠実な「衛星国」と言われた。

ペレストロイカの影響

 しかし、ソ連自身が1970年代から政治や社会の硬直化が目立つようになり、自由の抑圧や国民生活の困窮が社会主義体制への不満を強め、1985年からゴルバチョフ政権によるペレストロイカが始まると、モンゴルにも直接的に影響がおよんできた。
 1989年に始まった東欧社会主義圏の激動が一気に本家のソ連までに及び、1991年のソ連の解体にまで行き着くと、モンゴルにものその動きが波及し、一党独裁制の放棄、自由選挙の実施が実現して、翌1992年には社会主義を放棄し、モンゴル国と改称することとなった。
 1989年10月、民主化の動きがまさに盛り上がろうとしているモンゴルの首都ウランバートルで、若者の話を聞いた田中克彦氏は次のように伝えている。
(引用)かれらが自らの深刻ななやみを打ちあけるような面持ちで話したのは、ウランバートの失業についてである。それによると、首都の人口50万人のうち6万人が失業の状態にあり、しかもその大部分が若者であること、自分たち若い友人10人のうち7人には職がないと述べた。地方の牧畜地帯は、若者が皆町に出て行ってしまい、モンゴルの伝統的な牧畜は老人だけによって担われている。この国は長く外国に支配されてきたから、党も政府も、問題を解決する能力がない。いったいこの国はどうなるのだろう。私たちはこういうことを考えると息がつまりそうになる、と目に涙さえ浮かべて語るのだった。<田中克彦『モンゴル 民族と自由』1992 岩波同時代ライブラリー p.14-15>

Episode ロックコンサートのチンギス=ハーン

 そのとき、ウランバートルでめずらしいロックコンサートが開かれた。そこで歌われていたのは役人の腐敗ぶりと、彼らの責任による失業をついた内容が多かった。「私は失業者」といううたが大受けだった。それらのなかのひとつ「チンギス=ハーン」では、ステージの中央に、ライトを照らし出されながらチンギス=ハーンの肖像が静かに上がり、悲痛で荘重なメロディーで、「チンギス=ハーンよ、あなたを忘れなさい、あなたのことを口にしてはいけないと言ってきたのは私たちの本心じゃなかった、そのように命じた人たちがいる。しかし私たちはおぼえていた、おゆるしください」と歌った。最後の「ゆるしてください」のリフレーンになると青い旗をもった一団の少年が唱和しながら旗を激しく降り、会場では花火が打ち上げられた。旗の青色は伝統的にモンゴル民族を象徴し、赤旗のソビエト的国際主義に対立するものだ。<田中克彦『同上書』 p.17>
 この時の音楽グループは自らを“ホンホ”(鐘)と名のり、国民に警鐘を鳴らした。変革が実現し、1991年には複数政党制と議会制度が始まり、自由選挙が行われ、なによりも言論の自由が保障されるという民主化が進んだ。彼らは1990、91年に日本にも招かれ公演をしている。グループ“ホンホ”は1991年にテレビ朝日のニュースステーションに出演して「鐘の音」を演奏、田中克彦教授の通訳で、新しいモンゴルについて誇らしげに語っている。 → YouTube ホンホ「鐘の音」
 社会主義政権化ではチンギス=ハーンは暴君として否定され、讃えることは憚られていたが、民主化が進もうとしているいま、この伝説的な英雄を若者がいまやふたたび英雄として蘇らせようとしている。

モンゴル文字の復活

 その中で、モンゴル人の民族的自覚が復活して、それまでのロシアと同じキリル文字に代わり、自らの文字であるモンゴル文字の使用への切り替えを進めようとしている。
(引用)1989年の暮れにモンゴルで激しくはじまったペレストロイカは、何よりも、70年にわたるソ連の抑圧と、それを受け入れ、ソ連の手先となった人民革命党とその政府への非難として始まった。そして当然、ソ連が奪った、民族の伝統の文字の復活を訴えた。『ウネン』の1990年の1月2日号には、はやばやと、「ことしの新学期から、小学校の教科書は、モンゴル文字で出版しよう」と呼びかける記事が現われた。しかし実際には、この運動はもっと古くからあって、たとえば88年の12月16日の『文芸新聞』には「モンゴル文字を断乎よみがえらせよ」という呼びかけの文章が出ている。<田中克彦『モンゴル 民族と自由』1992 岩波同時代ライブラリー p.185>
 モンゴル文字は現在、学校教育の場では民族の伝統文化として教えられ、一般でも使える状態となってきたが、しかし、実際の日常生活や新聞、テレビ、インターネットなどでは依然としてキリル文字(ロシア文字)が使われている。モンゴル文字は縦書きで、横書きに向かない点が普及の妨げになっているようだ。

Episode モンゴル人力士登場の世界史的意義

 1992年に入幕した旭鷲山(最高位小結。2006年引退)以来、モンゴル人力士が日本の大相撲で活躍するようになり、ついに朝青龍と白鵬、日馬富士、鶴竜が相次いで横綱に昇格するほど、大相撲を通じて日本とモンゴルの関係は深くなった。モンゴルには古来、モンゴル相撲という日本の相撲に似た格闘技があるからであろうか。もはやモンゴル人力士を外人力士と言うのはやめたほうがいいのではないか。なお、その開拓者であった旭鷲山は帰国後の2008年に国会議員に当選しているという。
 旭鷲山は1991年に、大相撲の大島親方(もと旭国)が他の6人と共にモンゴルからスカウトしてきたなかの一人だった。この年、モンゴルはソ連崩壊のあおりで社会主義国が倒れ、初めて自由選挙が行われて翌年はモンゴル国が誕生する。モンゴル人が外国である日本に出て、プロスポーツである大相撲の世界に身を投じることができたのも、この世界史的変動と無関係ではないだろう。
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田中克彦『モンゴル』表紙
田中克彦
『モンゴル 民族と自由』
1992 岩波ライブラリー