印刷 | 通常画面に戻る |

キルギス共和国

中央アジアの山岳地帯にある、トルコ系キルギス人を中心とする国。1991年、ソ連の解体にともなって独立し、CISの一員となった。経済の不振と政治の不正が続き、2005年に民衆が立ち上がって大統領を倒すという政変があった。

キルギス地図
キルギスの位置
 キルギス kyrgyz はクルグスとも表記する。中央アジア5ヵ国の一つで北にカザフスタン共和国、西にウズベキスタン共和国、南にタジキスタン共和国に接し、東はテンシャン山脈を境に中華人民共和国の新疆ウイグル自治区に面している。首都はビシュケク。人口は約500万、面積は日本の約半分。人種はキルギス人が約65%だが、ウズベク人、ロシア人も多く、公用語は現在もロシア語である。ソ連邦の一つの社会主義共和国で会ったが、ソ連解体に伴い、91年に独立、一時キルギスタン共和国と称したが、現在はキルギス共和国(現地音ではクルグスという音に近い)と改称した。一般にキルギスタンという場合もある。

近代以前の略史

 キルギス人がこの地に定住するようになったのは16世紀からであるが、それ以前からこの地はシルクロードの中間点であり、交通の要衝であったことから、いくつかの民族と国家の興亡があった。西に隣接するフェルガナ地方は中国で大宛として知られ、張騫が汗血馬の存在を漢の武帝に伝えたことはよく知られている。唐の玄奘はインドに向かう途中、現在のイシ・ククル湖に近い砕葉城に滞在したことが『大唐西域記』に記されている。また唐軍とイスラーム軍が751年に激突したタラス河畔の戦いのタラス川はこの国の北西を流れている。
 10世紀にはトルコ系のカラ=ハン朝の都ベラサグンがこの地に置かれた。12世紀には東方から契丹の一族耶律大石が移動してきてカラ=キタイ(西遼)を建国した(都は同じくベラサグン)。  13世紀はチンギス=ハンがこの地を征服し、それ以降はモンゴル人の支配が続くが、チャガタイ=ハン国領となった後、ティムール帝国の一部となった。ティムール帝国が衰退し、ウズベク人のシャイバニ朝が成立、16世紀にもともとシベリアにいたキルギス人が移動してきて定住し、部族社会が続いた。ウズベク人のコーカンド=ハン国の支配を受けた後、1876年にロシア領となる。

ソ連時代と独立

 ロシア革命後に、1918年からトルキスタン自治ソビエト社会主義共和国に編入され、1924年にロシア連邦内のカラ=キルギス自治州となり、26年にキルギス=ソヴィエト社会主義共和国に昇格、36年にソヴィエト社会主義共和国連邦の一員となった。
 1980年代後半からソ連のペレストロイカが始まり、89年には東欧革命が勃発して東ヨーロッパの社会主義国が次々と民主化を遂げる中、1990年、キルギスも共和国主権宣言を行い、91年にソ連の解体にともなってキルギス共和国となり、独立国家共同体(CIS)に加盟した。5ヵ国の中で最も早く1998年にWTO(世界貿易機構)に加盟したが、急激に国際競争に巻き込まれたために国内経済は混乱した。
 1999年8月には、キルギス南部で日本人鉱山技師等がウズベキスタンに本拠を置くイスラム過激派グループに誘拐されるという事件がおこった。10月に解放されたが、日本政府からキルギス政府を介してゲリラ組織に身代金が支払われたのではないかと言われているが、政府は否定しており、真相は明らか以なっていない。

2005年 チューリップ革命

 カザフスタンは旧ソ連邦を構成していた中央アジア五ヵ国の中では、経済活動、政治活動の自由が保障され、最も自由度の高い、安定した国と思われていた。しかし、91年の独立以来、大統領職にあったアカーエフは、次第に権力を身内で固めるなど独裁的な面が強くしていった。特に資源に恵まれているわけではないキルギスが、国際競争で不利な立場に追いこまれ、さらに関係の深いロシア経済の不振が続いたため、国民生活は悪化していく中、2005年2月の選挙に際してアカーエフ大統領の与党による不正行為が発覚し、国民の不満が一挙に爆発した。野党に率いられた市民が首都ビシュケクの政府機関を占拠、アカーエフ大統領は国外に逃亡して権力が崩壊した。これは、キルギスでもっとも一般的な花の名をとってチューリップ革命と言われた。新大統領には野党指導者だったバキーエフが就任した。

2010年の民族衝突

 2005年にアカーエフ大統領の腐敗を批判し、国外逃亡に追いこんだ野党指導者バキーエフであったが、自ら大統領に選出されると、前大統領と同じように一族を政府高官に登用するなど権力を私物化するようになった。おまけに経済は好転せず、旧ソ連邦諸国の中で最も貧しいと言われるようになり、再び民衆の政権不信が高まった。2010年4月、野党は大統領官邸を占拠して辞任を迫り、バキーエフはやはり国外に逃亡した。チューリップ革命と同様なことが繰り返された。
 さらにこの時は、6月に南部でキルギス人ウズベク人の民族衝突が起き、公式発表でも400人の死者(実際にはその10倍とも言われている)が出、約40万人が隣国ウズベキスタンに避難した。政治不安が民族対立を煽った結果と考えられるが、臨時政府が新憲法制定を打ち出し、6月27日に国民投票で新憲法が承認されて、国家分断は回避された。<この項、朝日新聞 2010年6月20日、同29日記事による>
 新憲法では大統領は象徴にとどまり、議会で選出された首相が責任を持つという議院内閣制が採られ、大統領には元外相のオトゥンバエヴァが選出された。
印 刷
印刷画面へ