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イスラーム原理主義

20世紀に顕著となった、イスラーム教の本来の信仰に戻ることを掲げる勢力。イスラーム圏の国家の世俗化や西欧化に強く反発し、アメリカ資本主義やソ連の共産主義にも従わない、イスラーム教の原理に基づいた国家作りを進めようとし、たびたびテロ活動を行うようになった。

 イスラーム教の中には、スンナ派にもシーア派にも、常に世俗化に反発し、ムハンマドの教えの原点に回帰しようとするイスラーム改革運動の動きがあった。近代では18世紀のアラビアに起こったワッハーブ派の改革運動がそれにあたり、オスマン帝国の支配から自立しようとする民族運動でもあった。

パン=イスラーム主義、アラブ民族主義との違い

 イスラーム世界に起こった改革運動、民族運動、政治運動にはさまざまな系統があり、混同しやすい。イスラーム原理主義はパン=イスラーム主義、アラブ民族主義とは関係はあるが、明らかな違い、対立関係があるので、その違いを明確にしておく必要がある。
パン=イスラーム主義 19世紀から20世紀にかけて、イギリスなどの帝国主義の支配が及ぶと、アフガーニーが現れ、ムスリムたちに民族や宗派の違いを越えて結束することを訴えるパン=イスラーム主義を唱えた。その影響のもとで、エジプトのウラービー運動やイランのタバコ=ボイコット運動などの反帝国主義の蜂起が起こった。このパン=イスラーム主義は、イスラーム教信仰を自らのアイデンティティとしたが、西欧的な立憲政治を否定するものではなく、むしろそれを取り入れて西欧に対抗しようとした。その点で立憲政治も含めて西欧的な理念をすべて否定するイスラーム原理主義とは異なる。またトルコ人、アラブ人といった民族の違いは否定されたので、アラブ民族主義とも対立した。
アラブ民族主義 第一次世界大戦後の民族自決思想の広がりの中から、オスマン帝国に支配されているアラブ民族の独立を目指すアラブ民族主義運動も盛んになった。これはパン=イスラーム主義がムスリムとして民族を越えて結束しようとしたのに対し、トルコ人や西欧諸国の支配からアラブ民族の独立を目指す運動で、エジプトのナセルやイラクのバース党にに代表される。彼らは国家統治のために社会主義にも接近したが、その立場からは、イスラーム原理主義は弾圧の対象とされる。
イスラーム原理主義 アラビア半島のワッハーブ運動に源流のあるイスラーム原理主義は、ムハンマドの時代の原点に返ることを主唱し、イスラーム教の教え通りの宗教国家を樹立することを目指しており、西欧的な議会政治や社会主義は原則として否定される。したがってイスラーム原理主義派、パン=イスラーム主義やアラブ民族主義と異なる。ワッハーブ運動はオスマン帝国、ムハンマド=アリーのエジプトから弾圧された。エジプトにおける原理運動であるムスリム同胞団はナセル政権からきびしく弾圧された。原理主義による政権奪取が唯一成功したのがイラン革命であった。また90年代以降、アフガニスタンのタリバーン政権、イラク・シリアにまたがるイスラム国(IS)があったが、いずれも押さえ込まれている。

20世紀のイスラーム原理主義

 現代のイスラーム原理主義は、まずエジプトで1920年代に生まれたムスリム同胞団から始まる。彼らはエジプトの政権を世俗化し、堕落したものと見なし、西洋文明のお仕着せではなく、イスラーム法(シャリーア)による正しい政治を実現すべきであると考えた。彼らはテロ活動は否定したが、1940~60年代の指導者サイイド=クトゥブは戦闘的な改革を唱え、その影響受けたテロ集団がいくつか生まれた。クトゥブは、現代社会をイスラーム以前の無明時代(ジャーヒリーヤ)に戻ってしまったと見、それに対する「聖戦」(ジハード)を呼びかけた。

イラン革命の衝撃

 1970年代に入って米ソ冷戦構造が揺らぎはじめ、パレスチナ問題の行き詰まり、アメリカ資本主義の行き過ぎやソ連型社会主義の閉塞性のいずれにも反発を強めていたアラブの若者の中にイスラームへの回帰が素直に受け入れられたようだった。まず、1979年イラン革命ホメイニの指導するシーア派原理主義が勝利をおさめ、その教義に従う宗教国家が誕生したことは、彼らの自信を確固としたと想像できる。

国境を越えた活動

 同じ1979年12月、ソ連軍のアフガニスタン侵攻に対するアラブ各地からの原理主義者の支援による戦いが始まった。こうして国境を越えて集まったイスラーム教徒の青年が、武装集団として反イスラーム勢力と戦い、それが終わると世界各地に散らばって、国際的なテロ活動をするという傾向が現れた。

湾岸戦争後

 イスラーム原理主義者の中に、反米・反西欧の意識が強まったのが、1991年湾岸戦争に際して、アメリカ軍主導の多国籍軍がイスラーム世界に侵攻し、その一部は聖地のメッカに進駐したことに対する反発であった。アフガニスタンでは89年にソ連軍が撤退し、ソ連軍との戦いで自信を深めたイスラーム原理主義勢力の中からターリバーンが台頭し、実権を握った。また世界各地に戻っていって各地で世俗権力との戦いを始めた。アルカーイダを組織したビン=ラディンもサウジアラビアからアフガニスタンにわたってきて頭角を現した。97年11月のエジプトのルクソール事件、98年のケニヤのナイロビとタンザニアのダルエスサラームでのアメリカ大使館爆破事件など、世界を驚かすテロが続いた。

9.11同時多発テロ

 湾岸戦争後、アラブへの介入を強め、軍事占領を続けるアメリカに対するイスラーム原理主義者の反発が強まり、それが2001年同時多発テロとなって現れたと考えられる。現在、極端なテロ活動に走る過激原理主義にはイスラーム世界の中でも反発も強まっており、アラブ各国も正面切っては認めてはいないが、2005年にはイラン総選挙で改革派が敗れ、原理主義者の首相が選出されたように、なお根強い支援があるのは間違いない。テロに対する軍事報復という悪循環は2005年になってからもロンドンの地下鉄爆破事件をもたらした。このような対立をなくしていくためにも、過去の歴史を見、正しく知ることが第一歩になるのではないだろうか。<藤原和彦『イスラーム過激原理主義』2001 中公新書 など>

Episode 文明の衝突? イスラーム原理主義と西欧

 1993年にはアメリカの歴史家サミュエル=ハンチントンが『文明の衝突』を発表し、現在のイスラーム原理主義の台頭を、キリスト教西洋文明とイスラーム文明の衝突ととらえる見方が出されている。ハンチントンはさらに文明間の枠組みが変動し、2010年に米中戦争が起こるという大胆な予測して話題となった。しかし、相互理解の不可能な「文明間の対立」を宿命的で避けられないものと言ってるわけではない。そのような事態に陥らないようにしなければならないし、また可能であることを世界史の中から見いだしたいものである。現在では「文明の衝突」といった見方はほとんど見られなくなっている。<参考 山内昌之『イスラームと国際政治』1998 岩波新書>
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書籍案内

藤原和彦
『イスラーム過激原理主義』
2001 中公新書

山内昌之
『イスラームと国際政治』
1998 岩波新書

池内恵
『現代アラブの社会思想―終末論とイスラーム主義』
2002 講談社現代新書

横田貴之
『原理主義の潮流―ムスリム同胞団』
イスラームを知る10
2009 山川出版社