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ハンムラビ王

前18世紀ごろのバビロン第1王朝の王。前1759年までにアムル人の諸国を併合してメソポタミア統一を再現し、法典編纂、灌漑用水路の建設などを行った。古代オリエントで最もよく知られた王の一人。

バビロン第1王朝全盛期の王

 アムル人が築いたバビロン第1王朝の第6代の王。在位紀元前1792年~前1750年頃(注)。ラルサやマリなどの王国を征服して、前1759年までにメソポタミアの統一を(アッカド、ウル第3王朝に続き)実現した。「ハンムラビ法典」といわれる法典を制定し、官僚と軍隊を整備、駅伝制や灌漑用水路の建設を行い、交易・商業を保護し、バビロン第1王朝の全盛期をもたらした。バビロン第1王朝はその後も約200年間続き、ヒッタイトによって前1595年ごろに滅ぼされ

メソポタミアの統一

 ハンムラビ王が即位した前1792年頃のバビロン第1王朝は、また弱小国の一つに過ぎず、上メソポタミア王国(古アッシリアを継承。都シュバト・エンリル。チグリス川上流域を支配)、マリ王国(ユーフラテス川中流域)、エシュヌンナ王国(ティグリス川東岸)、ラルサ王国(メソポタミア南部)などのアムル人が建てた国が抗争していた。バビロンも上メソポタミア王国を宗主国としていた。さらに東方のスサにあったエラム王国がたびたびメソポタミアに侵攻したので、アムル人王国は連合して戦い、撃退しなければならなかった。ハンムラビ王がこれらの諸国の王と取り交わした粘土板の王書翰が多数発掘されており、緊迫した情勢が伝えられている。
 ところが前1785年に最も強大だった上メソポタミア王国がシャムシ・アダト1世の死去によって崩壊したことで状況は一変、ハンムラビ王による統合の動きが出てきた。ハンムラビは南のラルサ王国を攻撃、前1763年頃までに征服し、続けてマリ王国に遠征した。それまでにエシュヌンナ王国も従えており、前1759年までにマリ王国を征服、その年(治世34年)に自分の王号に、新たに「アムル全土の王」を加えている。このれによってハンムラがメソポタミアを統一したとすることができる。<中田一郎『ハンムラビ王』世界史リブレット人1 2014 山川出版社 p.22-60 による要約>

Episode メソポタミアの内臓占い

(引用)ハンムラビ時代のメソポタミアでは、重要な決定をくだすさいにはかならず内臓占いをおこなって神意をうかがった。軍隊にはしばしば内臓占い師が随行した。時には内臓占い師が200人~300人規模の部隊の指揮官を務めることもあった。内臓占い師は、「戦争をすべきか否か」のように、イエスかノー(吉か凶)で回答できるように設問し、ヒツジやヤギを神(々)に捧げたあと、解体し、おもに肝臓の諸部位を点検し、判断した。そして、王や遠征中の隊長は占い結果に従って行動した。時には、念を入れて、あるいは望んでいる回答が出るまで、同じ設問に二度または三度内臓占いをくり返すこともめずらしくなかった。<中田一郎『同上書』 p.53>

灌漑用運河の建造

 バビロニアは年間降水量が200mm以下で、人工灌漑に頼らなければ農耕は不可能であった。灌漑用の運河の建造はシュメール人の時代から行われていたが、長い時間の経過と戦乱によって荒廃したものも多く、それらを定期的に浚渫(しゅんせつ)することが国王の責務の一つであった。混乱を平定したハンムラビは、既存の運河の修築や浚渫に加えて、新しい運河を建設した。運河の浚渫・整備はバビロニアの国土回復には不可欠であったので、ハンムラビ王関係の粘土板資料にもその事業が盛んに行われたことが記されている。ルーブル美術館には「ハンムラビの大運河工事を記念した王碑文」が残されている。

ハンムラビ法典の制定

 この王の時に制定されたハンムラビ法典は、復讐法などの原理を含み、代表的な古代法典として有名であるが、現在では先行したシュメール法典を継承したものと考えられている。
 ハンムラビ法典には「条文」の前後に「まえがき」と「あとがき」があり、三つの部分からなる「王碑文」として造られている。同時に「法典碑」として造られており、ハンムラビが自己を顕彰すると共に、「正義」の拠り所として後世の人々に残す意図を持って建造されたと考えられる。 → ハンムラビ法典
注 ハンムラビ王の在位年代 ハムラビ王の在位年代は確定していない。一般にここにあげた紀元前1792~1750年頃とされることが多く、教科書の多くも前18世紀としている。山川出版社の詳説世界史では「前18世紀ごろ」としている。しかし有力な異説に、在位を前1724~前1682年とするものもある。実教出版はこの数字をあげている。そこで、前18~17世紀と幅を持たせている例もある(東京書籍など)。概説書では中央公論新社の『世界の歴史』1では前1792~1750年説を取っている。その他の手近な辞典類を見ても両説が見られる。