ヒッタイト
ヒッタイト人はインド=ヨーロッパ語族に属し、前17世紀中ごろ、小アジア中心に王国を建設し、一時はメソポタミアに進出し帝国の支配を拡げた。都はハッシュシャ。西アジアで最初に鉄器を使用したとされる。エジプトと激しく争った後、前1200年頃、海の民の侵攻によって滅亡した。
西アジアに鉄器をもたらす
ヒッタイトはインド=ヨーロッパ語族に属する一民族で、前1900年頃、西アジアに起こった広範囲な民族移動の動きの一つとして東方から小アジア(アナトリア=現在のトルコ)に移住し、既にその地で始まっていた鉄器製造技術を身につけ、有力になったと考えられている。ヒッタイト人はハッティともいわれ、前1650~1200年頃にかけてその地を支配し、さらに西アジアのメソポタミア地方にも進出した。ヒッタイトの登場は、それまでのオリエントの歴史に、大きな変動をもたらした。
前1680年には、ヒッタイト王ハットゥシリ1世はハットゥシャ(ハットゥシャシュともいう。現在のボアズキョイ)を首都として王国を建設、さらに前1595年にはバビロンを攻撃、バビロン第1王朝を滅ぼし、アナトリアからメソポタミアに及ぶヒッタイト帝国となった。
ヒッタイトの鉄器
ヒッタイトはオリエント世界で初めて鉄器を使用した人々と考えられている。ヒッタイト王国の首都ハットゥシャの近くにあるアラジャホユック遺跡で、およそ3500~3400年前の地層から、鉄器を製造していた痕跡が見つかっている。2017年には、現在のトルコの首都アンカラから南東約100kmにあるカマン・カレホユック遺跡から、さらに1000年前のものとみられる世界最古の鉄製品が発掘された。その後ヒッタイト人は独自の製鉄技術を発達させ、武器や実用品として鉄器を製造したが、彼らは鉄製の車輪を二頭の馬にひかせる戦車(チャリオット)を発明し、周辺諸国との戦いを進めた。ヒッタイト人は製鉄の技術を秘匿していたといわれ、それによって勢力を伸ばした。
エジプト新王国などとの抗争
前16世紀から前15世紀にかけて、西アジアにはヒッタイトの他、カッシートやミタンニ、アッシリアなどが登場し、ヒッタイトもふくめてこれらの国々の間で国際関係が展開された。その事実はエジプトで発見されたアマルナ文書の楔形文字を記した多数の粘土版に記録されている。前13世紀にはシリアに進出したエジプト新王国と争い、前1286年頃にはラメセス2世とシリアのカデシュの戦いで対決した後、講和条約を締結した(最初の国家間の講和条約と言われる)。
しかし、前1200年頃、「海の民」の侵入を受けて滅亡したと思われるが、その事情はわからない点が多い。
ヒッタイトが滅亡したことによって、独占していた鉄器製造技術が、西アジアから東地中海一帯へ拡散され、文明段階の青銅器時代から鉄器時代へと移行したと考えられている。
都ハットゥシャ
20世紀の初頭、トルコのボアズキョイ(ボガズキョイ)で発掘された遺跡から、ヒッタイト王国の歴史を物語る楔形文字の粘土板が多数発見され、この地がヒッタイトの都ハットゥシャ(ハットゥシャシュともいう)であったことが判明した。Episode ヒッタイト王国の発見
ヒッタイトという民族は、旧約聖書にヘテ人として現れるが、いったいどのあたりにいた、どのような民族で、その国はどんな国だったのか、全く忘れ去られていた。19世紀にエジプトのテル=エル=アマルナから発見された粘土板文書(アマルナ文書)の中にハッティ国とエジプト新王国の間に交わされた書簡が見つかり、おぼろげながらその存在が浮かび上がった。そして1905年から翌年にかけて、ドイツのヴィンクラーという学者がトルコの首都アンカラの東のボガズキョイ村の遺跡で多数の粘土板を発見した。その中の一枚にアッカド語で書かれた粘土板を読み始めた彼は、一瞬、我を忘れた。粘土板文書はエジプト新王国のラメセス2世からヒッタイト王のハットゥシリ3世にあてた書簡で、カデシュの戦いの後に両国で交わされた平和条約に関するものだった。ヴィンクラーはその条約文が、エジプトのカルナック神殿の壁面に刻まれているものとほぼ同一であることを発見したのである。こうしてこの遺跡がヒッタイトの都、ハットゥシャシュであることがわかった。<大村幸弘『鉄を生み出した帝国』1981 NHKブックス p.3-5>