エラム人
前22世紀、西アジアのイラン高原南西部を支配した民族。系統は不明。エラム王国は都のスサを建設した。カッシート王国を滅ぼすなど前12世紀には最盛期となったが、次第に衰退し、前7世紀には滅亡した。
大河流域外の文明形成
エラム人 Elam は、前22世紀ごろ、イラン高原の南西部、後のアケメネス朝の都スサを中心とした一帯で起こった民族。その系統は不明であるが、インドヨーロッパ語族のアーリア人が侵入する以前のイラン高原に、最初に居住していた民族の一つである。前12世紀中頃の前1155年にバビロニアのカッシートを滅ぼし、最盛期となった。その後も長く存続し、オリエント諸国と交易し、東方のインダス文明圏とも交渉があった。やがて前7世紀に、メソポタミア北部に興ったアッシリア帝国によって滅ぼされた(前639年頃)。なお、山川出版世界史用語集では、エラム人についての記述は新課程用2004年版に登場したが、現行の2014年版では姿を消した。世界史上は前22世紀から前7世紀という長い期間活動した民族であったが、日本の世界史教育では10年の短命に終わった。
エラム線文字の使用 紀元前3千年紀、シュメール人が文字を使用し始めてからやや遅れて、イラン高原でも絵文字のような記号が使われるようになった。これはイラン高原で最初に活動を開始したエラム人が使用したものと考えられ、そこから変化したと思われる線文字も見つかっており、「エラム線文字」といわれている。しかし、まだ解読されておらず、シュメール人の文字との関係も不明である。エラム人は紀元前2千年紀にはシュメール人やバビロニア人に倣って楔形文字を使用するようになる。
インダス文明との接触 最近、シュメール人のメソポタミア文明と接触していたエラム人は、その東にあったインダス文明との間にあり、直接は関係がなかった両文明を仲介する働きをしていたのではないか、との学説が出されている。エラムの最初の居住地は地下資源が豊富で、シュメールからの独立を維持していたが、前2600年頃、その地下資源を狙ったシュメールの侵攻を受け、都を東のアラッタに移した。それはイラン高原東南部、現在のケルマーン州であったので、インダス文明圏とも接触した。このアラッタを中心に「トランス=エラム文明」とも言われる交易圏が成立、石材や木材、クロライトという綠泥岩の加工品、アフガニスタン特産のラピスラズリなどがメソポタミアにもたらされたと考えられる。このような大河の流域ではない地域に交易という形で文明が形成されたことが明らかになり、従来の文明観の再検討が必要になっている。<青柳正規『人類文明の黎明と暮れ方』2009初刊 2018講談社学術文庫版再刊 p.238-240>
エラム王国
エラム人は紀元前24世紀のアッカドのサルゴン王の碑文などに現れ、たびたび侵攻されている。エラム人もメソポタミアにたびたび侵攻したことが碑文に遺されており、紀元前22世紀にはスサ地方に進出して、王朝国家を建国した。前2004年頃にはメソポタミア南部に侵入し、ウル第3王朝を滅ぼし、前18世紀にはバビロン第一王朝のハンムラビ王と抗争した。。ハンムラビ法典を持ち去る 前12世紀にはスサを都とした新王朝が成立、メソポタミア中央部に入り、前1155年、カッシート王国(バビロン第3王朝)を滅ぼし、オリエント最大の軍事勢力となった。バビロニアの諸都市を征服したエラム王国の王は、バビロンを都としたハンムラビ王の遺品をスサに持ち去った。ハンムラビ法典の記された石碑もこのとき持ち去られたのであり、それがバビロンの遺跡ではなくイランのスサで発見されたのはそのような事情があったからである。<山本由美子『オリエント世界の発展』1997 中央公論新社 世界の歴史4 p.81-92>
世界遺産 チョガ=ザンビール
前13世紀ごろのエラムの王が建設したとされるのが現在のイランの南西部(フーゼスターン州シューシュ)のチョガ・ザンビールに残るジッグラトである。1935年に油田探索の調査飛行中に土で出来た不思議な塔が発見され、調査の結果ジッグラトであることが判明した。現在は発掘調査が終わり、復元され、世界遺産に登録されている。一辺105mで四隅が東西南北を指し、五層でからなる高さ約28mの最大のジッグラト。ジッグラトはメソポタミアのシュメール人起源でイランのものではないが、ウル第3王朝を滅ぼしたエラムが継承したものと考えられる。<小林登志子『シュメル-人類最古の文明』2005 中公新書 p.270-271>エラム王国の衰退
前12世紀の終わりごろから弱体化が始まり、記録上からも姿を消す。前640年にアッシリア帝国のアッシュール=バニパル王によって破壊され、エラム王国は滅亡した。紀元前7世紀末までに、スサを中心としたエラム人の地域は北方のメディア王国の支配下に入り、その後は独立することはなかった。しかし、エラムのすぐれた行政制度や官僚機構は、メディアに続くペルシア帝国にも採り入れられ、エラム語は公用語の一つとされてアケメネス朝の中ごろまで使われた。またエラムの都だったスサは、アケメネス朝でも諸官庁が置かれる政治上の都として続いた。