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太陰太陽暦

太陰暦と太陽暦を総合して調整した暦法。農事暦とほぼ一致するので広く用いられた。中国諸王朝とその周辺諸国で皇帝が暦を管理すると考えられていた。

 月の満ち欠け(朔望月)によって日数を算える暦法が太陰暦であり、季節循環を1年(太陽年)とするのが太陽暦であるが、太陰暦による日数の数え方を太陽年の1年にあわせた暦法が太陰太陽暦である。太陽太陰暦ともいい、太陰暦の1年と太陽暦の1年の差を、閏年・閏月を入れることで解消するものであった。古代オリエントや中国で用いられていたのは実際にはこの太陰太陽暦である。太陰暦だと、実際の播種・収穫と言った農作業とはずれてしまって不便なので、太陽暦との差を埋める太陰太陽暦が工夫された。
 イスラーム世界で現在も用いられているイスラーム暦は、太陰暦で作られており、西欧・日本との暦日の差が大きい。

中国の暦法

 中国では前1300年ごろの代から太陰太陽暦が使用されていたことが、殷墟などから発見された甲骨文の研究によって明らかになった。そして暦の編制は漢王朝以来、皇帝の権力の証として朝廷で行われ、それが頒布されるという形を取った。まさに皇帝は時間をも支配するという観念があったのであった。
漢の武帝の太初暦 漢の武帝は、前113年に、即位の翌年の前140年に遡って年号として建元元年とした。さらに皇帝として初めて改暦を司馬遷らに命じ、前104年に太初暦を制定した。これは一ヶ月の平均日数を29日と81分の43日(29+43÷81=29.53)とし、正月を歳首とする(それまでの秦以来の暦法では10月が歳首だった)ことに改めた。この暦は前漢末に補修されて三統暦となった。
授時暦・大統暦 元代になると、郭守敬がフビライ=ハンの命令を受けて、イスラームの天文学、とりわけ測量器機を採り入れて1280年に新たな暦表として授時暦を作成した。これはイスラーム暦(太陰暦)そのものを採り入れたわけではなく、古来の中国暦をより正確にしたものと言える。それは明代に一部修正されて大統暦としてなった。
時憲暦 明末に宣教師のアダム=シャールとともに徐光啓が西洋暦法を学んで『崇禎暦書』を表し、それに基づいた改訂が清の時憲暦である。
日本の暦 日本も中国の暦法を準用していたが、江戸時代に渋川春海が授時暦をもとにした貞享暦を作成して、それが採用されたのが日本独自の暦の始まりであった。1972年(明治5年)に西洋で用いられていた太陽暦(グレゴリウス暦)に切り替えた。以後、太陰太陽暦による暦法は「旧暦」と言われるようになったが、伝統的行事は旧暦の日付で行われることも多い。

参考 閏月

 太陰暦では、朔望月の長さの平均は29.53日であるので、29日の一月(これを小の月という)と30日の一月(これを大の月という)の六回を交互におくと354日となる。これだと太陽年(季節周期)約365日と1年で11日のズレが生じる。そこで太陰太陽暦では、ほぼ3年に一度、閏月を入れる(その年は13ヶ月となる)ことでズレを解消する。閏月を入れる年を閏年というが、春秋時代の中国で、19太陽年がほとんど235朔望月に等しいことがわかり、19年間に7回閏月を入れる閏年をおくようになった。この「十九年七閏の法」はアテネの学者メトンが前五世紀に発見したメトン法に当たるものである。<広瀬秀雄『暦』日本史小百科 1978 近藤出版社 p.12 /同『年・月・日の天文学』1973 中央公論社・自然選書 などによる>

Episode 王が門の中に籠もる月

 月の満ち欠けを一ヶ月としていた太陰暦のなごりは日本語に多く残されている。「三日月」は月の初めの新月から三日目の、かすかに月が光り出したことをいい、満月のことを「十五夜」というのは真ん中の15日に月が最も大きくなるからである。月末を「みそか」というのは三(み)十(そ)日(か)のこと。太陰暦に実際の季節の変化を一致させるために作られたのが「閏月」であるが、殷代には年末に閏月を置くことで調整していた。後に太陽と月の動きがより正確に計算出来るようになると、一律に年末に置くのではなく、季節と暦のずれが大きくなるタイミングを計算して挿入するようになった。一方で閏月は余計なもの、縁起が悪いものとされ、凶事を回避するために王が門の中に籠もったことから「閏」という漢字が作られたと言われている。<広瀨匠『天文の世界史』2017 インターナショナル新書 p.35-37>