植民市/ギリシア人の植民活動
古代のギリシア人は前8~6世紀、さかんに地中海各地に進出して植民活動を展開、多くの植民市を設けた。それはフェニキア人との抗争となりペルシア戦争の背景となった。ギリシア人植民市を起源とする都市は現在も地中海各地に存続している。
地中海での植民活動
古代ギリシアのポリスが、地中海各地に建設した主な植民市は、マッサリア(現在のフランスのマルセイユ)、ネアポリス(現在のイタリアのナポリ)、タレントゥム(同タラント)、シチリア島のシラクサ、エーゲ海に面したミレトス、黒海の入り口のビザンティオン(ビザンティウム、ローマの都となってコンスタンティノープル、現在のトルコのイスタンブール)、アフリカ北岸エジプトのとくに南イタリアのギリシア人植民市は、半島中部のエトルリア人と盛んに交易をおこない、半島南部一帯のギリシア人入植地はマグナ=グラエキアといわれ、前272年にタレントゥムがローマに征服されるまで続いた。
ギリシア人の地中海での植民活動、交易活動は、フェニキア人及びフェニキア人が建設したカルタゴなどの活動と競合することとなり、それがフェニキア人を保護したペルシア帝国がギリシアを征服しようとして起こされたペルシア戦争の背景となる。
(引用)貴族政ポリスの相対的人口増加と、貴族層内部の政争とは、この矛盾の外部への転化の方策として、市民の一部を外へ送り出す植民市建設(アポイキアと言われた)の事業を発見させた。前8世紀の半ばから約二百年のあいだに、ギリシア諸市の植民市建設が活発におこなわれ、南イタリア・シシリーをはじめ、地中海・黒海・マルモラ海の縁辺には多くの植民市が点在することになり、ギリシア世界は飛躍的に拡大した。……植民市を建設しようとするポリスは、まずその指導者をきめ、仲間や貧民がこれに加わって、デルフォイの神託を乞い、ポリスの象徴としての“共通のかまど”から聖なる火を分け、これを新市のかまどに移すのを習わしとしたが、母市と娘市とは政治的には独立した国家であった。<太田秀通『スパルタとアテネ』1970 岩波新書 p.65~>
ポリスの形成と植民活動
古代ギリシア人の活動が、現在のギリシア本土とエーゲ海域だけではなく、地中海全域に広がっていたことをしっかり理解しておく必要がある。またギリシア本土のポリスがまず形成されて、本土の人口が飽和状態となったので海外に植民活動を展開した、と考えがちであるが、そうではないことに注意しよう。以下のような指摘が出されている。(引用)そもそも、ギリシアにおける社会の基礎的な単位であるポリス(都市国家)が誕生した前8世紀後半は、ギリシア人がイタリア南部やシチリア島に進出を始めた時代にあたっている。このいわゆる「大植民活動」は、かつてはギリシア本土でポリスが成立してから付随的に起こった現象と説明されるのが一般的だった。しかし近年では、ポリスの形成と植民活動とは分けて考えることができないという立場が有力になっている。いずれにしても、初期のギリシアの歴史が、ギリシアという空間に限定された一国史的な枠組みでとらえるべきものではないということは、このような点から見ても明らかだろう。<周藤芳幸『物語古代ギリシア人の歴史―ユートピア史観を問い直す』2004 光文社 p.63-64>