クセルクセス1世
アケメネス朝ペルシアの国王でダレイオス1世の子。ペルシア戦争を継続し、前480年のテルモピュライの戦いでスパルタ軍を破り、一時アテネを占領した。しかし海軍がサラミスの海戦で敗れたため撤退した。
第3回ペルシア戦争でギリシアに遠征
アケメネス朝ペルシア帝国第4代の王で、ダレイオス1世の子。クセルクセスとはギリシア語の表記で、古代ペルシア語ではクシャヤールシャンちう。在位前486~465年。ギリシア遠征に失敗した後に死去した父ダレイオス1世の意志を継ぎ、前480年に自ら大軍を率いふたたびギリシア遠征に向かった(第3次ペルシア戦争)。ダーダネルス海峡を押し渡り、ギリシア本土を南下、テルモピュライの戦いでレオニダスの率いるスパルタ陸軍を破り、ついにアテネに入りいったん制圧に成功した。サラミスの海戦・プラタイアの戦いで敗れる。
しかし同行したペルシア海軍が前480年9月、アテネのテミストクレスに率いられた海軍と戦い、サラミスの海戦で大敗を喫し、クセルクセスは戦闘意欲を失いペルシアに引き揚げた。翌前479年7月年、ギリシアに残ったペルシア軍は、ふたたびアテネ・スパルタ連合軍とプラタイアの戦いで敗れ、さらに海軍もミュカレの海戦でふたたびアテネ海軍に敗れ、ペルシア帝国のギリシア遠征は失敗に終わった。ペルシアに戻っていたクセルクセスはその後、部下の謀反にあい、殺害された。ヘロドトスの『歴史』に、クセルクセスに仕えた宦官の興味深い話が載っている。 → 宦官の項参照
バビロンの破壊
西洋史の視点からは、クセルクセス王はギリシア遠征に失敗し、敗北した王としてでてくるだけであるが、ペルシア帝国側から見れば、ギリシアとの戦いは彼が行った遠征の中の小さな出来事に過ぎない。クセルクセスが最も重視したのはバビロンの反乱だった。バビロンはキュロス2世によって征服され、ダレイオス1世は都の一つとして統治し帝国内の最も繁栄した商業都市であったが、ペルシア人の支配には不満を持ち続けていたようで、前484~476年まで、三次にわたる反乱を起こした。クセルクセス1世はこの不従順な都市に懲罰を加えることにし、バビロンの都市神マルドゥクを祀る神殿を破壊し、その黄金神像を撤去、神官団を大虐殺した。住民も移住させられ、都市バビロンの繁栄はこれによって終わった。クセルクセス王の死
ギリシア語文献ではクセルクセス1世は王太子ダレイオスは近衛隊長アルタバヌスのクーデタによって殺害され、そのアルタバヌスは王の妹の婿のバガブフシャ将軍によって処刑された、という。しかし、バビロニアで発掘された粘土板によれば、クセルケス1世(クシャヤールシャン)は前465年に推定年齢57歳で、王太子ダーラヤワウシュによって暗殺され、そのダーラヤワウシュは弟のアルタクシャサ(ギリシア名アルタクセルクセス)によって処刑され、アルタクシャサが次の大王となった、記されている。そのいずれが正しいのかは不明であるが、前465年に一種の宮廷クーデタが起こったことは間違いないようだ。次のアルタクシャサ1世(アルタクセルクセス)のとき、ギリシアとの戦争の和平交渉が行われ、前449年に「カリアスの和議」によって終結した。<青木健『ペルシア帝国』2020 講談社現代新書 p.74-78>