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レオ1世

5世紀の初期ローマ教会の教皇。カルケドン公会議でローマ教会の首位権を主張。アッティラの侵略からローマを守った。ローマ教会の権威を高め「大教皇」と称された。

 レオ1世(在位440~461)はローマ=カトリック教会ローマ教皇の権威を高め、「大教皇」といわれる、ローマ教会史での重要な人物。その伝記の詳細は不明な点が多いが、カトリックの歴史では440~461年の教皇とされている。ただし、一般には当時の正式職名であるローマ司教レオ1世と言われることが多い。なお、歴代のローマ教皇で「大教皇」と言われるのはレオ1世とグレゴリウス1世のふたりだけである。
※高校世界史では出てこない人物(山川出版世界史用語集にも記載なし)であるが、キリスト教・ローマ=カトリック教会の歴史を知る上では重要なので、参考のため挙げておいた。

カルケドン公会議

 451年、キリスト教の単性説をめぐって、コンスタンティノープルの東方のカルケドンで東ローマ皇帝が主催したカルケドン公会議に対して、ローマ司教レオ1世は、三位一体説を唯一の正しい教説であることを強調した書簡を送った。その結果、単性説は異端とされ、三位一体説はあらためてキリスト教の正統として確立した。それを推したローマ教会のレオ1世の権威が高まることとなった。
 それによってレオ1世が司教を務めるローマ教会はキリスト教各管区教会(五本山)の中での権威が高まった。レオ1世もローマ教会の首位権を主張したが、カルケドン公会議ではコンスタンティノープル教会にもローマ教会と同等の地位が与えられた。

アッティラと会見

 当時、西ローマ帝国はフン人ゲルマン人の侵略を受け、窮地に陥っていた。カルケドン公会議の翌452年にはフン人を率いたアッティラが北イタリアに侵入し、ローマをめざしてきた。西ローマ皇帝ウァレンティアヌス3世は何の抵抗も出来なかったが、ローマ司教レオ1世は2人の元老院議員と共にマントヴァまで出かけ、アッティラと会見、ローマ攻撃を思いとどまらせた。  また、455年にはヴァンダル人を率いたガイセリックが北アフリカからローマに攻め込んできた。この時もレオ1世はガイセリック王に面談、攻撃を止めさせることは出来なかったが放火と略奪は止めさせ、ローマ市民の命と財産を守った。この二度にわたって外敵からローマを守り、被害を最小に留めたことから、レオ1世はローマを守ったと賞賛された。

アッティラ説得の背景

(引用)「天の怒りの鞭」と仇名されたアッティラに率いられてこのフン族が、東ロ-マ帝国を侵し、プルグンド、ガリアを経て、パンノニアからイタリアをうかがった。452年に北イタリアの地になだれ込んだフン族を迎えて、レオ1世はローマを劫奪から救う決意の下に、アッティラと会見し兵を収めることを求めた。レオ1世の白髪をみつめながら黙ってその訴えを聞いていたアッティラは、そのまま兵士を返してドナウの彼方に去ったので、身に寸鉄を帯びない老レオの捨身の豪胆によって、永遠の都ローマはフン族の馬蹄の下に踏みにしられることを免れたと伝えられている。
 実際にはこの話の裏には、アッティラは前年の四五一年に、ガリアのカタラウヌムの戦いで、最後のローマ人といわれるアエティウスの率いるローマ・ゲルマン連合軍に敗れて、その戦力は衰えていた上に、侵入してきた北イタリアは飢饉で食糧不足と疫病の流行に悩まされていたので、長居は無用と判断したことと、更にドナウを渡った東ロ-マ軍によって背後から脅かされたこともあって、ローマの差し出した貢納だけを愛け取って引ぎ上げていったという事情があった。が、ともあれこのレオ一世の行動には、ローマを代表してこれを守る自負と決意と一身を犠牲にして顧みない果敢な精神をうかがうことはできるし、会見後アッティラは新婚の床で頓死したので、人々がこれを神罰と考え「悪魔は神の代埋人によって征服された」と喜び、ローマの司教への尊信を益々高めたのは事実であった。<半田元夫『キリスト教史Ⅰ』p.209-210>

「キリスト教による平和」

(引用)レオ1世の理想は、「キリスト教による平和(パックス・クリスティアーナ)」が「ローマの平和(パックス・ローマ)」に取って代わることであった。ローマの支配による平和」が帝国の軍隊によってもたらされるのに対し、「キリスト教による平和」は、「ローマの教会と教皇の権威によって築かれるのである。そのためには、教皇に全教会に対するすべての責任と権限を集中させなければならない。ローマ教皇の優越性がこれほど明確に示されたことは、それ以前はなかった。<シオヴァロ/ベシェール『ローマ教皇』知の再発見双書 1997 創元社>
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オシヴォロ他/鈴木宣明訳
『ローマ教皇』
双書知の再発見
1997 創元社