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ドラヴィダ人

インドア大陸の先住民族。インダス文明を築いたと考えられる。アーリア人の北インド侵入によってデカン高原以南の南インドに押されていったが、紀元1世紀以降にいくつかの王国を成立し、独自のドラヴィダ文化を開花させ、インド洋交易でローマとも交易を行った。

 現在は南インドに居住し、全インドの5分の1をしめるドラヴィダ語を話す人々。黒い肌色と黒い縮毛が特徴。その言語であるドラヴィダ語はインド=ヨーロッパ語族にも、南アジア語族にも属さない。

インダス文明の担い手

 彼らは、西方からインドに移住し、先住民を征服してインダス文明を築いたと考えられている。しかし、前1500年頃に西北からインドに入ってきたインド=ヨーロッパ語系のアーリヤ人に押され南インドに追われ、デカン高原にサータヴァーハナ朝、さらに南インドにチョーラ朝パーンディヤ朝など、独自の文化を持つ国家を展開させた。
 現在、南インドのタミル人のタミル語はドラヴィダ語を継承しており、彼らはアーリヤ系インド人とは異なるドラヴィダ系インド人として残っている。
(引用)おそらくインダス文明の主な担い手であったと考えられるドラヴィダ民族の中心部族は、紀元前1500年ころから南方へ移動を開始し、西インドを通って紀元前1000年ころにはデカンおよびその南方に定住するようになった。その後、巨石文化の時代をへて、南端のタミル民族が、紀元前後の時期にまず独自のタミル文化の華をさかせたということになろう。それに比して、デカンではサータヴァーハナ王家の支配のもとで、北インドのアーリヤ文化の影響がより強く見られた。<辛島昇『インド史』角川ソフィア文庫 p.52>

南インドのドラヴィダ文化

 半島南部の状態については、紀元前3世紀のマウリヤ朝全席のアショーカ王が各地に立てた石柱碑の刻文などによって、チョーラ、バーンディヤ、ケーララ(チェーラ)などの国があったことが知られるが、その当時に、デカン以南の地には巨石をともなった埋葬様式が見られる。しかいし、社会の詳しい状況が知られるようになるのは、ほぼ紀元1世紀からであり、それは、シャンガム(サングム)文学と呼ばれるタミル語の古典文学作品が1世紀ごろに生み出され、そこに残された前述の三王国の王たちをパトロンとした詩人の詩作のなかに人々の生活が描かれていることによってである。
ローマとの交易 紀元1世紀ごろから南インドとローマ帝国の間で活発な貿易が行われたことは、プトレマイオスの『地理学』や、著者不明であるが『エリュトゥラー海案内記』などギリシア・ローマ側の書物にも記され、南インドでもローマの金貨が発見され、港の跡が発掘されたことによっても確かめられる。おそらく、東南アジアからもたらされた香料などが輸出され、その支払にローマの金があてられた。 → インド洋交易圏
シャングム文学 タミル語による詩文であるシャングム(サンぐム)文学によると、紀元1~3世紀に、北インドのアーリヤ文化の影響が見られ、インドラ神の祭りが行われ、バラモンが存在し、ジャイナ教なども知られていたが、なおもムルガン、コットゥラヴァイなどドラヴィダ人の神々が大きな崇拝を受けていた。<辛島昇『インド史』角川ソフィア文庫 p.50~52>