チョーラ朝
南インドのドラヴィダ系タミル人の国。前期チョーラ朝(前3~後3世紀)はローマとも交易。後期チョーラ朝(9~13世紀)はスリランカ、スマトラに進出した。
インド南部東岸にあったドラヴィダ語族系のタミル人の国。チョーラ朝という王朝名は、前3世紀~後3世紀の前期チョーラ朝と、9世紀から13世紀の後期チョーラ朝の二つがある。両者ともインドの東南部、現在のタミル地方にあったタミル人の王朝であり、後者は前者の後継王朝であると自称している。
チョーラ朝などドラヴィダ系の王朝は、北インドをグプタ朝が統一した時代にも南インドで存続していたが、次第にグプタ朝に押されたことと、交易相手であったローマ帝国が分裂するなどの影響で衰退していった。後に後期チョーラ朝が復興するのは9世紀のことである。
12世紀にはこの王朝のもとで、ヒンドゥー教の改革運動であるバクティ運動が起こっている。しかし、1279年頃、南方のパーンディヤ朝と北のカーカティヤ朝が離反して挟撃されたため、滅ぼされた。
前期チョーラ朝
前3世紀~後3世紀 クシャーナ朝やサータヴァーハナ朝と同時代で、さらに南に同じタミル人の国家パーンディヤ朝とチェーラ朝があった。クシャーナ朝やパーンディヤ朝と同じく、インド洋交易圏の中で、胡椒などの特産品をローマに輸出し、その対価として金貨を得ていたことが、この地の遺跡からローマ金貨が出土することから判っている。チョーラ朝などドラヴィダ系の王朝は、北インドをグプタ朝が統一した時代にも南インドで存続していたが、次第にグプタ朝に押されたことと、交易相手であったローマ帝国が分裂するなどの影響で衰退していった。後に後期チョーラ朝が復興するのは9世紀のことである。
後期チョーラ朝
9世紀~13世紀 9世紀に南インドのパッラヴァ朝を倒して再興され、10~11世紀のラージャラージャ王と次のラージェンドラ王の時に全盛期となった。ラージャラージャ1世(在位985~1014年)はパーンディヤ朝を制圧し、西海岸のケーララも支配下におき、スリランカに攻め入ってその北半分を占拠した。彼は都タンジャヴールに壮大なシヴァ寺院を建立した。息子のラージェンドラ1世は遠くパーラ朝のガンジス流域に遠征軍を送り、ベンガル地方にも勢力を伸ばした。東南アジアに進出
ラージェンドラ1世はさらに1025年頃、東南アジアのマラッカ海峡地域で海上交易で栄えていた三仏斉(かつてのシュリーヴィジャヤがあった地域に生まれた港市国家の総称)に遠征軍を送って制圧している。この二人の王は、中国の宋に三回ほど使節を送ったことが『宋史』に記録されている。この遠征によってチョーラ朝はベンガル湾をわが海としてその海域の交易を支配した。またマレー半島に置いたチョーラ朝の拠点クダからは中国に朝貢のための使節を派遣したことが中国資料に出ている。しかし、チョーラ朝の海域支配は1070年頃から後退していった。<古田元夫『東南アジア史10講』2021 岩波新書 p.33>12世紀にはこの王朝のもとで、ヒンドゥー教の改革運動であるバクティ運動が起こっている。しかし、1279年頃、南方のパーンディヤ朝と北のカーカティヤ朝が離反して挟撃されたため、滅ぼされた。