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サータヴァーハナ朝(アーンドラ朝)

前1世紀~後3世紀、インド中部のデカン高原一帯を支配したドラヴィダ人の王朝。アーンドラ朝とも言う。バラモン文化、仏教をともに保護。広くインド洋交易を行う。

サータヴァーハナ朝地図
サータヴァーハナ朝の最大領土
 前1世紀~後3世紀、南インドのデカン高原にはドラヴィダ人系のアーンドラ部族が独立して建てたのでアーンドラ朝とも言う。シャータヴァーハナとも表記。都はプラティシュターナ(現在のパイタン)。

デカン高原を支配したドラヴィダ系王朝

 一時、アショーカ王時代のマウリヤ朝に朝貢したが、マウリヤ朝が崩壊するとデカン高原一帯を支配し、紀元前1世紀頃から急速に勢力を伸ばし、前75年にはデカン高原西部を支配し、前28年頃までには北インドの大半を支配するようになり、後1世紀はじめのガウタミープトラ・シャータカルニ王(在位106~130ごろ)の時に最盛期となり、北西インドのクシャーナ朝とも対抗する勢力となった。そのころインド亜大陸南部には同じドラヴィダ系のチョーラ朝パーンディヤ朝などがあり、インド洋交易を行っていた。

アーリア文化の受容とインド洋交易

 サータヴァーハナ朝はドラヴィダ系の国家であったが、アーリヤ文化を積極的に受け入れたので、バラモンが移住し、バラモン教を南インドに伝え、仏教・ジャイナ教も広まった。また公用語としてサンスクリット語を採用するなど、インドの南北の文化の架け橋となる役割を果たした。
 またインド洋交易を通じて西方のローマ帝国とも盛んに交易を行い、さらに東南アジア方面との交易をすすめたことも知られている。

仏教の浸透

 サータヴァーハナ朝の王たちはバラモン教を奉じ、自らもバラモンと称していたが、人々の間では仏教とジャイナ教がさかんであり、バラモン教と仏教は共存していた。王の一族にも仏教の信者も多かったようで、多くの仏教窟が造られ、アーンドラ地方のアマラーヴァティーなどには大きなストゥーパが建立されている。大乗仏教の教義の確立者として知られるナーガールジュナ(竜樹)もこの時代にアーンドラ地方で活躍していた。
アジャンター石窟寺院の造営 デカン高原西部の丘陵は石窟寺院を作るのに適していたことから、前2世紀ごろからアジャンター石窟寺院などの石窟寺院の造営が始まり、特にサータヴァーハナ朝時代にはその数を増した。そこには諸王家の寄進を記念する碑文が残されており、その寄進者の中には女性信者も多く、ドラヴィダ系の諸王朝では女性の地位が高く、彼女たちの間で仏教が熱心に信仰されていたことがわかる。
 サータヴァーハナ朝は、地方統治を王族や有力諸侯に委せていたが、3世紀に入ると、相次いで地方勢力が独立したために急速に衰退し、デカン高原はいくつかの勢力に分裂することとなった。<山崎元一『古代インドの文明と社会』世界の歴史3 1997 中央公論社 p.221-223>