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エリュトゥラー海案内記

1世紀の紅海・アラビア海でのギリシア人商人の活動記録。インド洋交易圏の季節風貿易を伝える貴重な資料である。

 1世紀中ごろにエジプトを拠点として活動していたギリシア系商人が、紅海・アラビア海の貿易事情を記録した書物。ローマ帝国とインドの間で行われたインド洋交易圏での季節風貿易の実態がわかる重要史料とされている。「ティナイ」という名で中国が西側史料に初めて現れる。

著者と成立時期

 エリュトゥラー海とは狭い意味では現在の紅海を指しているが、1世紀ごろのこの書が成立したころには紅海のみならず、インド洋まで含んだ広い海域を指していた。本書は66節からなる小冊子で、著者は無記名であるが、エジプトのアレクサンドリアを拠点として実際に貿易にあたっていた商人であるらしく、アレクサンドリアはギリシア系のプトレマイオス朝の都であったから、この著者もギリシア系の商人であったと考えられる。内容も著者が航海したインド洋各地で実際に見聞したことが記されていて、他の貿易商に向けての航海案内となっている。その成立年代には諸説あるが、村川堅太郎氏の詳細な考証によると、ほぼ紀元後40~70年の間、つまり紀元1世紀の中ごろであろう。

案内記の範囲

 案内記はまず紅海沿岸から始まり、アフリカ東岸をめぐった後に北上してアラビア半島南端の拠点アデンに達し、さらにペルシア湾口から東に向かってインダス河口に至る。そこからインド洋交易圏のインドの西岸の港市について詳しい案内が続く。セイロン島からインド東岸にはいるがこのあたりから記述は簡略になり、著者が実際に航行したかどうかは疑わしくなる。最後にマレー半島に関する紹介があり、そこから先は遠くシナにつながっていると述べて終わっている。寄港地の地名は当時のものでギリシア語で記されているので現在のどこにあたるかは不明なところも多いが、村川氏の翻訳本でほぼ比定されている。

ローマ帝国・インド・後漢の関係

 この案内記がつくられた1世紀の時期のインドは、北にクシャーナ朝が栄え、南にサータヴァーハナ朝(アーンドラ朝)があった。特にサータヴァーハナ朝はローマとの交易を盛んに行っていたことは、当時の遺跡から大量のローマ金貨が発見されていることから判明している。クシャーナ朝の支配した北インドではローマ金貨は出土しないが、それはこの王朝はローマ金貨を鋳つぶして、独自の金貨を発行していたためと考えられている。また中国ではこの時期は後漢の時代にあたり、1世紀の末には西域都護の班超が部下の甘英を大秦国(ローマ帝国)に派遣、甘英は現在のシリアまで行ったという。また2世紀にはマルクス=アウレリウス=アントニヌスと思われる大秦王安敦が後漢の支配する現在のベトナム北部の日南郡まで来て交易を求めたが、その際には『エリュトゥラー海案内記』の情報も利用されたのであろう。さらにベトナムの南部には港市国家扶南があって、そのオケオでもローマ製金貨や後漢の鏡などが出土している。これらの情報から、ユーラシアの東西で、陸上のシルク=ロード(絹の道)だけではなく、海上ルートである海の道が次第に重要になってきたことを知ることが出来る。

資料

 『エリュトゥラー海案内記』に現れた「シナ」 同書の64節には次のような文があり、このティーナイ(Thinai)は「シナ」、つまり中国のことと考えられている。これは欧人の書に「シナ」の名が現れたもっとも古い例である。此処では都となっているが、欧人は中国最初の統一王朝(しん)の名から中国を China と言ったが、Thinai や本文中のティスも同系列の語である。
(引用)この地方(マレー地方)の後に既に全く北に当って或る場処へと外海が尽きると、其処にはティーナイと呼ばれる内陸の大きな都があり、此処からセーレス(中国から中央アジア一帯を指すと思われる)の羊毛と糸と織物とがバリュガザ(インドの西岸の拠点港)へとバクトゥラ(バクトリアの首都)を通じて陸路で運ばれ、またリミュリケー(インド西岸の港)へとガンゲース河(ガンジス河)を通じて運ばれる。このティスの地方への容易には到達することができない。というのは此処からは稀に僅かの人たちが来るに過ぎないから。此処は小熊星の直下に位し、ポントス(黒海)とカスピア海との最も遠隔の部分に境を接するといわれる。カスピア海の傍らにはマイオーティス湖(アゾフ海か)が横たわり大洋(オーケアノス)に注いでいる。<村川堅太郎編訳『エリュトゥラー海案内記』中公文庫版 p.142>

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