インダス文明
インダス川流域のモエンジョ=ダーロ、ハラッパーなどの遺跡に紀元前2500年頃から1500年頃まで、彩文土器、金属器、印章などを伴う高度な都市文明が生まれた。重要な人類の古代文明の一つである。
インダス文明以前の農耕文化
最近、インダス川流域の西方のバローチスターン丘陵地帯で、前7000年頃にさかのぼる農耕文化が存在していることが明らかになってきた。メヘルガル遺跡を中心に、小麦・大麦の栽培、羊・山羊・牛の飼育を行っていたことがわかっている。前3000年初頭にインダス川流域の肥沃な平野が開発され、大集落が形成された。その一つのハラッパーはやがて都市に発展し、初期インダス文明の形成となった。この農耕文化とインダス文明の連続性を示すものとして双方の遺跡、遺物に見られる牛の崇拝があげられる。<『世界四大文明 インダス文明展図録』2000 NHK p.18> → インド(近代前)インダス文明の形成
紀元前2500年頃から1500年頃まで、インド西北(現在はその大部分はパキスタンに属する)のインダス川流域に成立した、都市文明。代表的な遺跡が、下流域(シンド地方)のモエンジョ=ダーロ、上流域(パンジャーブ地方)のハラッパーが代表的な遺跡であるが、これらはいずれも現在はパキスタン領になっている。インダス文明の遺跡はインドとパキスタン両国にまたがる広範囲に及んでいるが、インド領にはアラビア海に面したロータルや最近(1990年代)発掘されたグジャラート地方のドーラヴィーラー遺跡などがある。その都市文明の特徴は、
- 街路が整然と東西南北に並ぶ都市計画。家屋は焼煉瓦造りで、下水・井戸・浴場などの衛生施設を持つ。
- 公共的な建造物と思われる
沐浴場 (宗教的施設)、学校、公会堂、倉庫などを持つ。 - インダス川を利用した潅漑農業と、水牛、羊、象などの家畜の使用。
- 彩文土器の使用。
- 青銅器の使用(鉄器は知られていない)。
- 印章の出土。印章には象形文字(インダス文字)が描かれているが、未解読。
- シュメール人のメソポタミア文明との共通性がみられる、など。
メソポタミア文明との関係
(引用)“紀元前2350年頃のメソポタミアのサルゴン王の碑文(楔形文字の押された粘土板)に、「メルッハの船、ディルムンの船、マガンの船を波止場につないだ」という記載がある。別の文献では「メルッハから金、銀、銅、紅玉髄、黒檀などがもたらされた」とある。このメルッハが、インダス文明を意味し、メソポタミア文明にとって重要な交易相手であったと考えられている。メルッハについての記載は、前1800年頃にはあまりみられなくなる。この頃に、インダス文明は衰退したと考えられている。インダス文明は、メソポタミアやペルシア湾地域と活発に海洋交易を行った文明である。ドーラビーラーやロータルは、そのための拠点となる都市であった。”<『世界四大文明 インダス文明展図録』2000 NHK p.153>
参考 エラム文化との接触
最近、インダス文明とメソポタミア文明を仲介する役割を果たしたのではないか、と注目されているのがエラム人の存在である。エラムは現在のイラン高原のもっとも南西部に位置し、ザグロス山脈ぞいにスサを都とする王国をつくっており、その西はメソポタミアのシュメール人の活動範囲に接していた。天然資源が豊かだったエラムは、前2600年頃、シュメールに侵攻されたためイラン高原東南部の現在のケルマーン州に移り、新たな首都アラッタを築きインダス文明とも接触するようになった。シュメールとの交易も続いていたので、エラムを通じてシュメールの文化がインダス流域にも伝えられることになったと考えられている。<青柳正規『人類文明の黎明と暮れ方』2009初刊 2018講談社学術文庫版再刊 p.239>インダス文明の衰退原因
現在では、前1800年頃からインダスの都市文明は衰退期に入ったと考えられており、かつてのアーリヤ人の侵入によってインダス文明が滅亡した、という説は否定されている。アーリヤ人の北西からのインドへの侵入は前1500年頃であり、それより約200年早くインダス文明の衰退が始まっていたので関係がないことがはっきりした。それに代わるインダス文明衰退の原因については、まだ定説はないが、気候の乾燥化、河川の氾濫、焼煉瓦製造の燃料として森林を伐採したため、などが考えられている。