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インド洋交易圏

紀元1世紀前後から盛んとなった、インド洋での東西を結ぶ海上交易圏。西方のローマ文明圏と東方の漢文化圏を結びつける「海の道」の役割もになった。初めはギリシア人商人が活動し、7世紀にはイスラーム商人、15世紀には中国商人、15世紀末にはポルトガルなどヨーロッパ商人の活動の場となった。

 インド洋とその周囲の紅海、ペルシア湾、アラビア海、ベンガル湾およびマラッカ海峡を通して南シナ海と結びついた海域では、その西方でローマ帝国の登場によって広域交易圏が成立したことの影響を受け、紀元前後から活発な交易が行われるようになり、さらに東方の漢帝国の経済圏とも結びつくようになって、海の道または「海のシルクロード」とも言われる東西の交易ルートの重要な舞台となった。交易ルート上の要地には港市国家が生まれていった。インド洋交易圏はその後も7世紀のイスラーム圏の成立、15世紀の中国商人の進出などの変化を遂げながら海上交易の重要な舞台として続き、15世紀末のポルトガルのヴァスコ=ダ=ガマのインド航路開拓に始まるヨーロッパ勢力の進出の時代を迎えることとなる。

ギリシア系商人の活動

 紀元1世紀頃、ローマ帝国の勢力が西アジアにおよんできたことにより、イランのパルティア王国、北西インドのクシャーナ朝、インド中央のサータヴァーハナ朝、南インドのチョーラ朝パーンディヤ朝、スリランカのシンハラ王国などとの交易が盛んに行われるようになった。ローマ人は胡椒・香料・真珠・綿布・宝石などを買い金貨で支払っていた。現在、インドの各地からローマ時代の貨などが出土することから、その交易が盛んであったことがわかる。これらの東西交易の舞台となったのは、陸路のみではなく、アラビア海での季節風貿易であった。紀元1世紀ごろからアラビア海とその周辺にインド洋交易圏が成立した。最初に活躍したのはギリシア人商人であり、『エリュトゥラー海案内記』は、このころエジプトを拠点に活躍したギリシア人の船乗りがインドとの貿易の経験をまとめた紅海・アラビア海・インド洋の航海案内記である。さらに南インドの諸王朝は、ベンガル湾を横断してマラッカから南シナ海へのルートを開拓し、東南アジア・中国との交易を行うようになった。

ムスリム商人の活動

 8世紀に成立したイスラーム帝国の勢力がインダス川流域まで及ぶと、ペルシア湾に面したバスラを拠点としたムスリム商人が、アラビア海に進出してきた。彼らはアフリカ東海岸に進出してイスラーム化を促進すると共に、その地の黒人を捕らえて奴隷としてイスラーム圏に売りさばく黒人奴隷貿易を展開した。さらに彼らの活動は遠く唐まで及んでおり、中国では大食(タージー)と言われて、広州などの港に定住したものもいた。10世紀後半からファーティマ朝の建設したカイロが新たな交易の拠点となり、カーリミー商人といわれるムスリムの商人が、ダウ船という三角帆の船を操ってインド洋交易圏で活躍するようになった。インド洋交易圏に面したアフリカ東海岸では、土着の言語であるバントゥー諸語にアラビア語やペルシア語の語彙が多数影響を与え、スワヒリ語という独自の言語と文化圏が形成されキルワを中心に繁栄した。

中国商人の活動

 そのころ、中国では宋から南宋にかけて、江南の開発が進んだため生産力が上がり、中国商人ジャンク船を操ってインド洋に進出して、インド洋交易圏と南シナ海交易圏が結ばれるようになり、中国の陶磁器などが多数、イスラーム世界やヨーロッパにもたらされた。その最高潮が、15世紀の明の永楽帝による鄭和艦隊のインド洋への派遣である。 → 陶磁の道

ポルトガルの進出

 インドや東南アジア産の香辛料はムスリム商人によってインド洋・航海を経て地中海の東岸のレヴァント貿易でヨーロッパにもたらされ、香辛料貿易はヴェネツィアやジェノヴァのイタリア商人に高い利益をもたらしていた。ところが15世紀にオスマン帝国が東地中海を抑えたためこの香辛料貿易のルートが遮断されることになった。そこでイタリア商人はポルトガルとスペインという大西洋に面した両国の国王を動かし、アフリカ大陸を迂回するか、西回りかでインドに到達するルートを開拓しようとした。
 15世紀末、大航海時代の先頭を切ったポルトガルヴァスコ=ダ=ガマがインド航路の開拓に成功、1498年にカリカットに到達した。それ以後、ポルトガル人は盛んにインド洋に進出してカーリミー商人と利益を争うことになる。1509年にはディウ沖の海戦マムルーク朝海軍を破り、1510年にはゴアを占領し、ポルトガル商人の活動拠点とした。ポルトガル商人は、ホルムズなどからアラブやペルシア産の馬をインドに運び、軍馬を必要としていた南インドのヴィジャヤナガル王国に輸出した。 → ポルトガルのアジア進出
 ポルトガルはインド航路の中継基地としてアフリカ沿岸を重視し、ケープ植民地に続き、16世紀初めにアフリカ東岸のソファラキルワモンバサモザンビークを次々と攻略し要塞を建設した。しかし、この時期にはポルトガルはアフリカ大陸に植民地を永続的に経営する意図は少なく、まもなく撤退し、代わってオランダやイギリスが進出してくることとなる。 → ポルトガルのアフリカ進出

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書籍案内

村川堅太郎訳
『エリュトゥラー海案内記』
1993 中公文庫

三上次男
『陶磁の道』
2000 中央公論社

日本・中国からヨーロッパに至る各地の遺跡で発見された中国陶磁片をとおして、文化の伝播を論証する。69年刊岩波新書の復刊。