パータリプトラ
前4世紀末、インドの大半を最初に統一したマウリヤ朝の都。ガンジス中流の現在のパトナ。後のグプタ朝の都ともなった。
マウリヤ朝・グプタ朝の都
パータリプトラ(現パトナー)GoogleMap
中国僧の見たパータリプトラ
パータリプトラは紀元後4~5世紀のグプタ朝でも都として栄えており、そのころの繁栄の様子は、5世紀初め中国東晋時代の僧法顕の『仏国記』にも述べられている。法顕は399年に長安を出発してインドに渡り、この地に3年間滞在して仏典を学び、海路をとって412年に帰国した。(引用)〔ガンジス〕河を渡り、南下一由延で、マガダ(摩竭提)国のパータリプトラ(巴連弗邑)に到る。パータリプトラはアショーカ王の治めた処である。城中の王の宮殿は、みな鬼神によって建てさせたもので、石を重ねて門や石垣を作り、〔宮殿の〕彫刻や装飾はこの世の人の作ったものではない。いまももとのまま残っている。(中略)しかし、唐の玄奘がインドを旅行した7世紀のヴァルダナ朝の時代には「すっかり荒れ果てていた」とされている<『玄奘三蔵・西域インド紀行』講談社学術文庫p.143>。
およそ中国(中インド)では、この国の都城(パータリプトラ)が最大である。町の人々は富み栄え、きそって仁義(仁の道)を行っている。毎年つねに建卯(二月)の月の八日に行像を行なう。四輪車を作り、竹を縛って五層に作り、斗栱や九輪の柱があり、高さ二丈ばかり、その形状は塔そっくりである。その上を白木綿で蔽い、諸天の形像を彩画する。金銀、琉璃でその上を飾り、絵の幡や蓋をかけ、四辺に龕(ガン)を作る。〔龕には〕みな坐仏があり、菩薩が立侍している。〔このような四輪車が〕およそ二十車もあり、車々の装飾は各々異なっている。行像の日になると、この国の道人や俗人はみな集まり、音楽と踊り(倡伎楽)を行い、香華を捧げて供養する。<法顕/長澤和俊訳注『法顕伝・宋雲行紀』東洋文庫 p.96-98>