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パータリプトラ

前4世紀末、インドの大半を最初に統一したマウリヤ朝の都。ガンジス中流の現在のパトナ。後のグプタ朝の都ともなった。

マウリヤ朝・グプタ朝の都

パータリプトラ(現パトナー)GoogleMap

パータリプトラは、マガダ国の都としてガンジス川中流に建設され、前4世紀末のマウリヤ朝時代にもその都とされて繁栄した。現在のパトナにあたる。中国では華氏城(花の都の意味)として知られる。前300年頃、ヘレニズム三国の一つセレウコス朝シリアの使節としてマウリヤ朝のチャンドラグプタの宮廷に派遣されたギリシア人のメガステネスという人物が帰国後に書いたという『インド誌』の伝えるところによれば、パータリプトラの市街は長さ約14.2km、幅約2.7kmの広さがあり、町の周りは掘り割りがめぐらされ、その幅は約178m、深さは13.3mあったという。また町の周りには570もの塔があり、64カ所に門があったとも伝えられている。<アッリアノス『インド誌』(『アレクサンドロス大王東征記』岩波文庫所収)p.250>

中国僧の見たパータリプトラ

 パータリプトラは紀元後4~5世紀のグプタ朝でも都として栄えており、そのころの繁栄の様子は、5世紀初め中国東晋時代の僧法顕の『仏国記』にも述べられている。法顕は399年に長安を出発してインドに渡り、この地に3年間滞在して仏典を学び、海路をとって412年に帰国した。
(引用)〔ガンジス〕河を渡り、南下一由延で、マガダ(摩竭提)国のパータリプトラ(巴連弗邑)に到る。パータリプトラはアショーカ王の治めた処である。城中の王の宮殿は、みな鬼神によって建てさせたもので、石を重ねて門や石垣を作り、〔宮殿の〕彫刻や装飾はこの世の人の作ったものではない。いまももとのまま残っている。(中略)
 およそ中国(中インド)では、この国の都城(パータリプトラ)が最大である。町の人々は富み栄え、きそって仁義(仁の道)を行っている。毎年つねに建卯(二月)の月の八日に行像を行なう。四輪車を作り、竹を縛って五層に作り、斗栱や九輪の柱があり、高さ二丈ばかり、その形状は塔そっくりである。その上を白木綿で蔽い、諸天の形像を彩画する。金銀、琉璃でその上を飾り、絵の幡や蓋をかけ、四辺に龕(ガン)を作る。〔龕には〕みな坐仏があり、菩薩が立侍している。〔このような四輪車が〕およそ二十車もあり、車々の装飾は各々異なっている。行像の日になると、この国の道人や俗人はみな集まり、音楽と踊り(倡伎楽)を行い、香華を捧げて供養する。<法顕/長澤和俊訳注『法顕伝・宋雲行紀』東洋文庫 p.96-98>
 しかし、唐の玄奘がインドを旅行した7世紀のヴァルダナ朝の時代には「すっかり荒れ果てていた」とされている<『玄奘三蔵・西域インド紀行』講談社学術文庫p.143>