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法顕

5世紀初めに仏典を求めてインドに渡った東晋の僧。陸路、グプタ朝のインドにおもむき仏教を学び、海路で帰国。その旅行記が『仏国記』である。

 ほっけん。中国の東晋の僧。399年、長安を出発、仏典を求めて陸路インドに赴いた。402年から411年までインドに滞在し、各地を廻った。法顕が訪れたのはグプタ朝チャンドラグプタ2世の時代で、グプタ様式の文化が開花した時代であった。法顕は都パータリプトラで3年間、仏典を研究し、帰国はセイロン島に2年滞在、海路をとってマラッカ海峡を通り、412年に帰着した。その旅行記を『仏国記』といい、5世紀初めのインドと中国の交流を示す貴重な資料となっている。

Episode 64歳でインドに向かった法顕

 法顕は、『法顕伝』(一般に『仏国記』)によれば、長安を出発した時、64歳であった。同行した僧が10人ほどいたが、途中で死んだり、インドに留まったまま帰らなかったりで、東晋の都建康に帰り着いたのは法顕一人だったという。同書によれば、その旅行は、「長安を発してより六年にして中インドに至り、停って経ること六年、還るに三年を経て青州(青島)に達せり。凡そ遊履するところ減三十国あり」というから、帰国したのは七八歳になる。すさまじい老人パワーだ。<長沢和俊訳『法顕伝・宋雲行紀』1971 東洋文庫 による>

参考 吉田兼好もほめた法顕

 日本の鎌倉時代の随筆として名高い吉田兼好の『徒然草』に、法顕を誉めた次のような文がある。
(引用)法顕三藏の、天竺に渡りて、故郷の扇を見ては悲しび、病に臥しては漢の食を願ひける事を聞きて「さばかりの人の、無下にこそ心弱き気色を人の国にて見え給ひけれ」と人の言ひしに、弘融僧都、「優に情ありける三藏かな」と言ひたりしこそ、法師のやうにもあらず、心にくゝ覚えしか。<『徒然草』第八十四段 岩波文庫 p.146>
 三藏というのは、経蔵・律蔵・論蔵という仏典の総称。これらの仏典をインドから中国にもたらした高僧に対する尊称で、唐の玄奘も三蔵法師と言われた。法顕が異国で、故郷の白扇を見て涙した話は『法顕伝』にもあって、日本でも知られていた。